アンチヒーローの不在としてのセカイ系 斉藤環は「戦闘美少女の精神分析」(ISBN:4872335139)の中で、オタク文化に共通するつよい少女像=「戦闘美少女」について指摘している。この「戦闘美少女」の位置というのは、アニメを考える上で重要な存在だろう。 たとえばオタク文化のあけぼのとされる70年代の「宇宙戦艦ヤマト」(1974)では、主人公「強いヒーロー(古代)」と敵「強いアンチヒーロー(デスラー)」というライバルの構造が中心にある。あるいは「機動戦士ガンダム」の「アムロ」に対する「シャア」という「強いアンチヒーロー」が存在した。このような構造にあるときには、「戦闘美少女」(森雪など)は「紅一点」の脇役に留まる。 それに対して「銀河鉄道999」では、主人公のテツロウは強いヒーローではなく、反省的であり、そして敵はアンチヒーローのようにつよく敵対するというよりも漠然としている。この物語の 「戦闘美少女」であるメーテルの重要性は増す。 「銀河鉄道999」の「(反省的な)主人公」−「戦闘美少女」−「(漠然とした)敵」というような構図は、その後のセカイ系と言われる物語の特徴を表している。
一般的にセカイ系の特徴はボクの日常と世紀末が、社会的な背景(象徴界)なく短絡する、と言われる。東浩紀はこれを「象徴界の喪失」と呼んだ。それとともに、このように三界構造が純化されていることにセカイ系の特徴を見ることができるだろう。
「宇宙戦艦ヤマト」も「機動戦士ガンダム」は主人公の成長ドラマである。幼い主人公が様々な困難を乗り越えて大人になる。そのために強いアンチヒーローが父のように立ちはだかる。すなわち強いアンチヒーローは強いヒーローを要請するとともに、社会関係への参入を求める。セカイ系ではアンチヒーローが不在であることは、強くあること、社会的な存在となることへ、すなわち大人へなること(象徴界への参入)への拒絶として見ることができる。 外部への通路としての戦闘美少女 「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」は単なるヒーロー/アンチヒーローの物語ではない。「デスラー」にしろ「シャア」にしろ、もはや単なる敵ではない。父としてのアンチヒーローも様々な背景を持つ一人の悩める人間であることを知る。 これはポストモダンな状況と呼べるだろう。子供のためのアニメとしてのわかりやすい勧善懲悪の二項対立は解体されていき、大人も楽しめる複雑な人間ドラマへむかう。それは現実にボクたちが生きる複雑な社会に近づくことで、リアリティがあるものとなる。 しかし物語がボクたちの日常に近づけば、もはやそれは物語として楽しめないという面がある。日常が複雑で、閉塞している故に、日常から逃れるために物語を楽しむ。たとえば、ここでいう閉塞とは、「空気を読む」ことの過剰である。価値が多様化し、複雑化した社会では、価値を共有できずに、場の空気に関して敏感であることが求められる。KY(空気読めない)とは、その場の空気を読めというよりも、「価値が多様であり、空気を読むことがマナーであるということに自覚的でなければならない」、ということだ。 セカイ系ではなぜ「戦闘美少女」の存在が中心となるのか。斉藤環は「戦闘美少女」を「ファリック・ガール(ペニスをもつ少女)」と呼び、その特徴として、「ヒステリー性」と「セクシュアリティ」を上げている。
そしてここで言うの「無関心さ、無垢かつ天真爛漫な振る舞い」なヒステリーとは、いわば空気を読むという日常の閉塞に対して、そのような空気を無視して天真爛漫に振るまう、というようなことである。「戦闘美少女」は社会性を超越して、閉塞した日常(内部)の向こう(外部)を開く存在である。 セカイ系での戦闘シーンは必ずしも多くない。多くは主人公が反省する静かで閉塞したシーンである。そこに突然、敵が到来する。それはアンチヒーローのような社会性を背負ってはおらず、「エヴァンゲリオン」の使徒に象徴されるように、「漠然とした敵」である。そして「戦闘美少女」はこの外部から飛来した不気味な敵を殺戮する。それはアンチヒーローを倒すような決闘ではなく、「純粋」に殺戮するのである。 それは内部の敵ではなく、外部から到来する不気味なものである故に、内部の価値(倫理)である罪悪感なく、殺戮できるのだ。これこそが斉藤がいう「享楽」である。「ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽」する。そして「ファリック・ガールに対して、われわれは享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。」ここに閉塞した日常に対して、無垢な戦闘美少女を通路として外部が開かれ、エクスタシーが生まれる。 道具性の快楽 さらにセカイ系の「戦闘美少女」の特徴に、道具性がある。「銀河鉄道999」のメーテル、「攻殻機動隊」の素子、「最終兵器彼女」は機械であり、「エヴァンゲリオン」のレイはクローンである。 その他「戦闘美少女」は兵器で武装している。「戦闘美少女」が道具であることもまた、斎藤のいう中性性やヒステリー性を補強するだろう。
道具は身体を拡張し、到達し得なかった外部を開拓する力をもつ。子供は道具好きである。電車であり、車であり、力の拡張に魅了される。このような道具のもつ「呪術性(フェティシズム)」が効果的に使われているのが「ドラえもん」だろう。すなわちセカイ系が純化する三界構造とは、「戦闘美少女」を媒介として失われた外部を見いだし、ポストモダン的な「大きな内部」の閉塞からの解放を享楽する、ということだ。 |