[対話]痕跡とプログラムと欲望
pikarrr

voleurknkn
フーコーにおける規律訓練ですが、「規律の内面化」についての「技術」は近代を待たずとも大昔からあった、というタイプの批判はまったくナンセンスだと僕は考えています。フーコーはあるテクノ‐ロジーの出現に焦点を当てているのであって、つまり「ロゴス」という論理的な思考プロセスを通して作り上げられた反省的な理論としての、「規律の内面化」そのものに焦点を当てたテクノロジーが発達した時代を分析しているのであって、そのような事態は近代以前には存在しなかったわけです。

そこで問題となるのは言説と技術とのカップリングであり、「内面化は大昔からあった」という批判は、その「内面化」なるものを生み出している言説の布置の特殊性を完全に無視して、事後的に「内面化」モデルを超時代的に当てはめているに過ぎません。

同じく、生権力に関する議論も、そこではどのような統治形態が現れているのか、という発想だけでは片手落ちになってしまうと思います。その場合には、その形態は大昔からあった云々って話と容易に繋がっていくからです。

重要であるのは、特定の統治形態を見出すことではなく、特定の統治形態とそれを生み出している言説的布置、さらにはそれを具体化する特定の技術とのカップリングのありかたを見て取ることだと思います。純粋に方法論的な観点からの意見ですが。


pikarrr
フーコーが科学哲学に源流をもつことを考えると、言われているテクノロジーが発達した時代を分析しているというのはもっともです。しかしそこがまたフーコー批判の論点になっています。有名なフーコー派とラカン派の対立は、精神分析が人間の根元とする欲望論とフーコーにおいては近代の「発明」であると、対立しています。

これは、もしかするとvoleurknknさんのブログへ書いた、心身二元論の乗りこえの問題に繋がるのかもしれません。心はテクノロジーへ還元されるか、というようなことです。

フーコーの議論を外れますが、ボクは「反復」と対立するものとして「1回性」を考えています。


その死が自らの身近なものであるとどうだろうか。強いショックと悲しみを感じるだろう。身近な人は私にとって唯一の人であり、その1回性は反復に緩和することができない。これは倫理の問題である。「身近」な存在ほど、自分にとってかけがえのない、すなわち反復されない存在ということだ。反復へ解消されない唯一の存在であるとき、自意識がうまれ、生への緊張が生まれ、そして他者の尊重という倫理感が生まれる。(pikarrr)

「モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061219


voleurknkn
スティグレールは、フーコー的というよりは実はむしろラカン的な色合いが強いんです。「象徴的貧困」の二巻では、フロイトの器官的抑圧の概念を技術哲学と接続したりもしています。

スティグレールの基本的な問い方は、反復と一回性を対立させるのではなく、反復はいかにして一回性への信憑(←これが重要)を成立させることができるのか、という点にあります。

ここでの肝は、一回性は存在するのではなく、意識によって信憑されるものである、という点です。つまり、一回性は「信じること」に関わるのであって、じつは反復とは次元がちがうのですね。ただしその「信じること」は、反復を通してしか可能ではない。その関係性をスティグレールは探求していきます。この辺も難しい問題なのですが。

pikarrr
ボクが倫理的を強調するのもまさに次元が違うということを言いたいのです。だからvoleurknknさんのブログのコメントでいったこと、「人間と動物という二項対立を棄却し、それらをともにプログラムという概念を通して一元的にとらえようとする」ことへの違和感を感じました。

これは簡単には認識論と存在論の違いということではないでしょうか。「生命記号論」(ASIN:4791762177)のおもしろいところは、人の認識以前に生命は記号論な構造を持っているということです。それは科学的な認識論でなく、存在論ということでしょう。voleurknknさんのいう痕跡もプログラム(反復)も存在論的なものだと思います。その地平で人間と動物の二項対立は解体されるということではないでしょうか。

しかしボクが反復と1回性というときには、これは認識論です。人は世界を反復として認識する。なぜなら全てが1回性と認識するほどの処理能力をもっていないため。しかし大切なものは1回性で認識する。それが倫理です。ボクはこの認識論と存在論の次元が違うということが重要な点だと思います。


voleurknkn
スティグレールにおいて重要な概念の一つとして、「事後性」というものがあります。精神分析の文脈から借りてこられたこの概念は、pikarrrさんが「認識論」と「存在論」と呼ばれているものの関係性を理解するのに役立つ気がします。pikarrrさんはホフマイヤーの次の言葉を引用されていました。

生命はその全てが記号過程、記号操作に立脚する。記号とは元来、柔軟であり、そこでは間違いが避けられない。その結果が記号自身に反映され、少しずつ様々な方向へ移行していき、時空間の中で新しい何かとなり、また習慣化していく。・・・結局のところ自然界と人間の関係は、通常に思われているよりも、もっと近いものとなる。

「生命記号論」 ジェスパー ホフマイヤー (ASIN:4791762177)

ここでの「習慣化」は、生物個体と自然環境の中で繰り返されるアブダクションが、ある一定の冗長性を獲得していくことだと思います。ここで生物個体は自然環境を「認識」しているわけではなく、「うまくやっていく」ための自然環境に対する複雑な反応パターンを構築しているだけであるわけですよね。

で、この習慣化のモデルというのは、パースのプラグマティシズムにおける科学イメージと同様である気がします。科学は世界を、たとえばいわゆる表象モデルがイメージするような形で認識しているのではなく、絶えざるアブダクションの過程で安定的な記述パターンを構成していくだけである、と。

それは世界そのものを認識しているわけではないが、しかしその記述の試みが際限なく繰り返されていくことで、科学が展開する世界の記述は、あたかも世界そのものを認識しているかのように通用することになる、と。この科学観は、パースがカントの「純粋理性批判」に大きな影響を受けたということにもつながる気がします。

とすれば、世界そのものを認識するとイメージされるいわゆる「認識」というものがたんにまちがっているのか。いやそうではない、とスティグレールは答えると思います。スティグレールはそこに「投影」という概念をもち込みます。意識というものは、確立された反復パターンを通して世界の統一性を投影する、と考えるのです。ここに、「世界そのもの」というものへの信憑が生み出される。

人間と世界との間に実際に成立している関係性というのは、「習慣化」というような一定以上の安定性を有した反応パターンの成立でしかないのですが、そこで成立している反応パターンを足がかりにして、投影作業を通して意識は世界の統一性そのものを認識していると信じる。

ここに飛躍が生まれるとともに、事後性の論理が働きます。というのも投影によって意識は、習慣化としての反応パターンと世界の統一性との時系列的な関係を逆転させ、世界の統一性を認識することで習慣的な反応パターンが生まれている、と考えるからです。

科学における「認識」について起こっているのがまさにこのことですね。世界についての安定的な記述パターンでしかないものが、世界そのものの「認識」にもとづく記述であると錯視される。

ラカンも例に挙げるパスカルによる信仰の定式は次のように述べています。「信じるから祈るのではない。祈っているうちに信じるようになるのだ。」そしてさらに、祈っているうちに信じるようになると、信じているから祈っていのだと錯覚するようになる、と付け加えることができるでしょう。

反復と一回性とが次元がちがう、ということで僕が述べようとしたのは、この事後性の論理における地位の違いです。祈りが反復であり、一回性が神です。スティグレールはその両者の関係性を固有言語性というイメージで理解します。言葉はどこまでも反復のネットワークでしかないけれど、しかしひとはそこにそれぞれの人間の固有の文章表現というものを見出すことができる。

そのような固有言語性として一回的なものの出現を理解するわけです。ただしその一回的なものは存在するものではありえず、それゆえ存在するものを認識するというプロセスは成立しません。一回的なものは反復の効果として投影されるものですが、そこで事後性の論理が働き、その効果として見出された一回的なものが実体化され、その精神のようなものが言葉に外在化されたのだ、と錯覚されます。

ここにはいうまでもなく「作者」のモデルが現われますね。一回的なもの、というのは明確に「作者」というモデルによって中心化された特定のエピステーメーに結びついているものです。

倫理的なものは存在するものではない、というのはデリダも繰り返し述べていることだと思います。一回的なものは、事後性の論理を作り上げるものとしての信じられる対象だと思います。たとえば石器時代の人間にも倫理的な態度としても一回性はそなわっていた、とすることはナンセンスです。これは自由と平等に関しても当てはまることです。自由や平等は存在するものではなく、それを信じることによって世界が特定の方向に導かれていくような(カント的な意味での)理念です。

また、神に関しても、それが存在するかしないか、神は認識されるかされないか、という枠組みで捉えることはナンセンスです。神は信仰されるものでしかないからです。「神は死んだ」という宣言が神への信仰に対する挑戦であると捉えれてたのは、神への信仰が事後的に神の存在と同一視されていたからです。

神への信仰が神を生み出しているにも関わらず、神が存在するから神を信仰している、という風に事後性の論理が働いていた。しかしニーチェによる「神の死」の宣言は、信仰そのものへの挑戦ではなく、信仰という飛躍的行為を事後的に見出された神という存在するものによって根拠づける態度であった、と僕は理解しています。そこに信仰という行為そのものの飛躍を押さえつけ、永劫に変わることのないとされる「存在者」への従属という様態が生じます。

とりあえず、「一回性の認識」ということが言われるときには、そこには明らかに事後性の論理が働いているのではないか、ということが僕の言いたいことでした。このことは、一回性というものへの価値の否定ではありません。pikarrrさんが述べているように、一回的なものは倫理の次元に関わるものです。
その倫理の次元に関わるものを、認識される対象によって根拠づけるべきではないのではないか、ということです。


pikarrr
大変おもしろいです。ボクは「ラカンとデリダは裏表の関係にある」と言いました。ボクが倫理というときに、voleurknknさんが考えるのは、まさにこの裏表の構造があります。

たとえばボクは、「偶有性から単独性への転倒において神性は宿る」と言いました。これは、デリダ、ラカンなどからとったものことです。偶有性(=不確実性=カントの「ものそのもの」)な世界に対して、単独性(1回性)へと転倒する(=事後性)によって、人は世界を信じるということです。

しかし、voleurknknさんの考えに比べて、強調したいのは「神性」です。ボクは「痕跡とは必ず他者の痕跡である」といいました。人は痕跡に必ず他者を見いだします。生物のあの驚異的に精巧で美しい造形(痕跡)はなんでしょうか。人々はそこに「生物個体と自然環境の中で繰り返されるアブダクションが、ある一定の冗長性を獲得していく」とは考えず、そこに「神性」=創造者(大文字の他者)をみます。それが、驚異であり、美しいのは、自分と同じ「他者」がそれを作ったという親近感、尊敬、敬意からきます。

これはラカンとデリダの「手紙は必ず宛先に届く」の議論につながります。ラカンの「手紙は必ず宛先に届く」に対して、デリダは「手紙は必ず宛先に届くとは限らない」といってそれは臆見であると批判しました。しかしラカンがここでいっていることはそんな当たり前なことではなく、たとえばどのような世界観も神の視点ではなく、一つの思想(イデオロギー=錯覚)であることからは逃れられないということです。

だれも認識論からは逃れられない。これは一つのジレンマです。ボクがいうこともなんらかの欲望のもとに語られているわけです。そして欲望がないように振る舞うことが欲望的であるということであり、そこに欲望があることを認めることが倫理的なことである、ということことではないでしょうか。そしてここに哲学的な心身二元論的断絶の本質があります。

この事後性から逃げられなさが、まさに精神分析的な欲望です。そして生物と人間を分けている断絶です。


voleurknkn
pikarrrさんがおっしゃるように、最終的な結論のところは僕もpikarrrさんも同じようなところに落ち着いていると思うのですが、そこにいたるプロセスがちょっとちがう、ということなのだと思います。

先でおっしゃられているような「神性を見る」というようなことはかならず起こるわけではなく、それが生じるためには昇華=崇高化というプロセスが経られなければなりません。事実、自然に神あるいは超越的な痕跡を見る人間も見ない人間もいます。そのことはあらゆるモノに当てはまります。

そしてスティグレールの「象徴的貧困」のテーマもそこにあります。つまり、スティグレールが現代を脱昇華=脱崇高化(これが象徴的貧困)の時代だと見ていて、それゆえ昇華=崇高化がいかにして成立しうるものであり、またいかなる場合に成立しないのか、というその条件そのものを徹底してとうていくわけです。

そしてそこに、ラカンとは違い具体的な技術的配置というものが考慮されることになります。そこにラカン的な他者論を前提としながらも、スティグレールがラカンとは決定的に異なる点があります。象徴界が機能するためには、まずは感性的配置がその準備をしなければならない、ということです。

手紙と宛先に関するラカンとデリダの相違は、僕の理解するところでは次のように解釈できます。ラカンにおける「必ず宛先に届く」というのは意識に生まれる信憑の問題であり、デリダにおける「届くとは限らない」というのはその信憑を可能としている実際の反復のネットワークの問題です。

ここで重要であるのは、「届くとは限らない」の関わらず、意識は「必ず届く」と信じる、というそのギャップの意味を理解することだと思います。手紙に関するラカンとデリダの態度を巡る混乱は、「手紙は必ず届く」という意識の信憑の次元で成立する事態を、「実際に手紙は必ず届く」という事実の次元と混同していることにあると思います。

事実の次元、つまり記号そのものの働きにおいては、デリダが述べるように「届くとは限らない」というよりもそもそも「届く」とか「届かない」を成立させる意識の信憑とは違う次元でそれは作動しているわけです。 僕の主張とpikarrrさんの主張の違いは、「手紙は必ず届く」という事態そのものの可能性を構成している反復のネットワークの具体的な層を徹底的にまずは分析していくべきだと僕が考えている点です。一方のpikarrrさんは、最終的に成立している「手紙は必ず届く」についての意識の信憑に焦点を当てているように思われます。

ラカン的な意味での「手紙は必ず届く」という点については僕も完全に同意するのですが、それを成立させるメカニズムをどのように理解するのか、という点で態度がちがうわけです。

僕の基本的な発想は、目の前にしょーもないゴミが落ちていることとか、あるいは女の子からきたメールを読んで自分に気があると勘違いしてしまうこととか、あるいは夕焼けを見て超越的存在者のことをなんとなく思ってしまうこととかいうそういったあらゆることを、人類の誕生の時点までも考慮した上で、それがいかなる事態であるのかということを説明できるような言葉の道具立てを作りたい、というようなものです。

ということで、僕とpikarrrさんはその意味ではまったく対立していなくて、僕としては、pikarrrさんのヴィジョンをより現実に即して理解するためには技術哲学を経る必要であり、そこを僕は開発しようとしているのだ、という風に考えています。


pikarrr
voleurknknさんがいわれるように、ボクもデリダやスティグレールに感銘し同意している点で、voleurknknさんの概念装置(痕跡とプログラム)には賛同します。しかしまたラカンの倫理にも賛同しています。この論点は、おそらくある種の現代思想の臨界点ではないでしょうか。

ラカンの「手紙は必ず宛先に届く」というときには、「必ず」の重要性を考えなければいけません。ラカンは、人間は「必ず」超越的なもの(他者)を見るということです。それが、動物と断絶している人間、心がある人間、心身二元論の断絶ということです。

ラカンの思想は、他者の思想です。精神分析でいえば、人間は早産でうまれ、生まれてもまだ母と未分化で、そこに絶対の幸福感を得ます。その後、母と分離され、他者(母)の鏡像をインストールされ(想像界)、さらに母から去勢され、他者(言語=社会=象徴界)をインストールされるという、二重に疎外されることで大人になります。だから人はたえず絶対の幸福感=他者の地点(現実界)を求め、他者を欲望しつづけている存在です。昇華とは、このような欲望の「業」を社会的な行為に転換し、一時的に回避する方法でしかなく、欲望の本質ではありません。

たとえばクリプキが提示したヴィトゲンシュタインの規則のパラドクスでは、数学というものの正しさはなにによって、保証されるのか、と考えられます。それはクリプキによれば、数学を活用する集団の同意です。大澤はこれを「第三者の審級」と呼びました。すなわちそのような同意の集団が明確にあるわけでなく、人々の中でそのような集団があるだろうと信じられるという、大文字の他者によるものであり、それを作動させるのは、他者への欲望の総体です。

たとえば、デリダの「手紙は必ず宛先に届くとはかぎらない」ということのジレンマは、このような神性=「信憑」から逃れることです。それは「信憑」を脱構築し続けることです。止まったら、ある種の「信憑」にとりつかれます。デリダは「脱構築は正義である」といいましたが、これは、とまらないこと、宙づりにしつづけることにのみ「正義」があるということです。 たとえばデリダは自己同一性を脱構築するために、サインをわざと間違えたり、「私はデリダであって、デリダでない」というような発言をしています。このようなふるまいはもはや滑稽であり、ジジェクに言わせれば強迫神経症です。

さらに、voleurknknさんが「人類の誕生の時点までも考慮した上で、それがいかなる事態であるのかということを説明できるような言葉の道具立てを作りたい」というとき、こんな欲望的な発言があるでしょうか。そしてこれは必ず「誰か」に向けられています。

他者の次元を強調しましたが、ボクは、自然との自己完結的、プラグマティック(実働的)に生きていることにも同意しています。技術は他者が必要ない次元で作動しています。ラカンが「無意識が言語(活動)のように構造化されている」というのに対して、ポランニーがいった、体で覚えるような技術の習得という暗黙知の次元は、言語(他者)とは異なる次元があります。

そして言語を技術(道具)と考えれば、voleurknknさんが言われるように、「象徴界が機能するためには、まずは感性的配置がその準備をしなければならない」ということになると思います。差異と反復、そして痕跡という物質とプログラムの代補の運動が創発的に世界を構築していくということには同意しています。

しかしまたボクは、この反復の世界が「身体の次元」にあり、これに対立する「心の次元」として1回性の世界が存在する。そして反復の世界観の確からしさは、1回性によってしか保証されない、と思います。「世界を説明できる言葉の道具立てを作りたい!そしてこの反復の世界が正しい!この私が信じる!」という1回性です。1回性から逃れているように語る言説こそが1回性そのものだ、というです。

哲学は、身体(反復)へ還元されることに対して、たえず懐疑的であるべきだと思います。それが倫理です。


再度言えば、voleurknknさんの概念装置(痕跡とプログラム)には賛同しますが、voleurknknさん、スティグレールの立ち位置はとてもあやふやな点があるのではないか、と思いました。スティグレールが、「遺伝的記憶の層である系統発生+生物個体の神経的記憶の層である後成系統発生+人間においては技術の次元で相続されていく後成系統発生」を指摘するとき、voleurknknさんはここに「痕跡とプログラム」という連続した概念装置を見いだすわけです。

たとえばボクならば、人間と動物の断絶を強調するために、「痕跡とプログラムと欲望」といいたいと思います。

たとえば生態心理学に「アフォーダンス」という言葉があります。「空間において、物と生体との間に出来する相互補完的な事態」ということで、生物と環境との相補的な関係であり、voleurknknさんの「痕跡とプログラム」に近いように感じました。

しかし人間は、環境をよりドラスティックに改善していきます。人間はテクノロジーが大好きです。より速くより微細に、そこは、アフォーダンスを超えた異常な欲望があります。再度いえばボクはこれを「機械論の欲望」と呼びました。アフォーダンスに対する過剰は、フロイトに倣って「快感原則の彼岸」と呼ぶことができると思いますが、精神分析ではここに動物と断絶した「人間」を見ます。

またvoleurknknさんが例に上げる「ハンマー」は「ものを叩く」というコンスタティブな意味以上に、たとえば「武器」というようなパフォーマティブであり、欲望的な意味を持ちます。そして遺伝子や、アフォーダンスよりも柔軟性があり、欲望的なものこそが、人間技術の特性です。

voleurknknさんは、「断絶」に対して、とても曖昧な感じがします。たとえば、「民族性」ははたして、「痕跡とプログラム」に還元されるのか。そこにある「他者性」への欲望という剰余が生まれるのではないのか。


voleurknkn
この辺りの議論は、やはりアドホックな説明ではなくて、体系的な記述が必要となるのかもしれません。pikarrrさんが述べていらっしゃる諸点について細かく書いていくと不躾に長くなることはわかりきっているので、覚え書き程度に箇条書きで書いていくことにします。

早産

スティグレールは人間の条件を早産に加え手の解放というものも考慮し、早産がもたらす欠如を手が埋めていく、と考えます。そこに生まれるのが技術的客体であり、その技術的客体という場が「他者のまなざし」を可能とする条件をなすとされます。この意味でスティグレールは、技術的客体を「鏡」と呼びます。スティグレールは鏡さらには鏡像段階は、技術的客体という物質的痕跡なくしては不可能であると考えているという点で、ラカンとは別の道を歩み始めているように思えます。

クリプキ

クリプキのヴィトゲンシュタイン解釈は、ある部分では正当であると思いますが、ヴィトゲンシュタイン解釈としては端的に間違っていると思います。その点についてはヘンリー・ステーテンの『ヴィトゲンシュタインとデリダ』がわかりやすいです)。『ヴィトゲンシュタインのパラドックス』でなされている規則を集団の同意によって根拠づけることと、『名指しと必然性』でなされている固有名を「最初の命名儀式」によって根拠づけることとは論理的同一性をもっており、どちらもスティグレール、デリダ以前にラカンの理論との背馳します。「第三者の審級」は存在するのではなく信憑されるだけであるにも関わらず、クリプキはそれを「集団の同意」や「最初の命名儀式」という風に実体化してしまうからです。これはマルクスにおける労働や金に当たりますね。

デリダ

僕の理解では、pikarrrさんが念頭に置かれていると思われるデリダの身ぶりは「他者」への信憑を宙吊りにしようとしているのではなく、その信憑の実体化を批判するとともに、その信憑の成立の可能性の条件を遂行的に浮き彫りに出そうとしているのだと思います。そしていわゆる「後期」の「メシアニズム」は、まさに「他者」そのものへの信憑に動機づけられていて、「他者」への信憑を宙吊りにすることは問題とはなっていないように思われます。

信憑の実体化への批判がそのまま信憑そのものの批判であると勘違いされてしまうという点がここでは問題であると思います。デリダは信憑の実体化を批判しても、信憑そのものを批判することはありません。この前者と後者の差異が大事だと僕は思っています。

・反復と一回性

これについては、アドホックな説明ではたぶん無理なので、また別のルートを考えます。

・身体とアフォーダンス

知覚そのものが訓練を通して生み出されている、というギブソンの発想には賛成しますが、基本的には僕はアフォーダンス仮説には問題があると思っています。それは奇しくもpikarrrさんがおっしゃっているように、そこには技術の問題が入ってこないからです。

ギブソンはフッサールの現象学から影響を受けた人ですが、その点においてもメルロ=ポンティと凄く通じるところがあると僕は思っています。メルロ=ポンティは繰り返し技術の問題にも触れていますが、最終体には「身体そのもの」という裏返されたロゴスへと帰っていってしまいます。

人間の身体が関係をとりむすび環境とは、pikarrrさんがおっしゃっているように技術によって改変された環境です。そのことに加えて、みずからが手を加え、また手を加えつづけていくであろう環境との関係性において、人間は動物には存在しなかった次数での反省性/再帰性を獲得する、ということも付け加える必要があると思います。

その反省性の場が、非遺伝子的な不確定性の場であり、欲望が可能となるのもそこにおいてであると思います。しかし、この辺の議論の道筋もおそらく体系的な記述が必要になる領域であると思われます。



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