強者はなぜよく笑うのか
pikarrr


腹の皮を捩(よじ)る、腹を抱える、笑い崩れる、噴き出す、大笑い、馬鹿(ばか)笑い、高笑い、愛想笑い、作り笑い、せせら笑い、薄ら笑い、鼻で笑う、苦笑い、忍び笑い、含み笑い、不適な笑み、氷の微笑、謎の微笑み、母のような微笑、思い出し笑い、独り笑い、照れ笑い・・・


人は実によく笑う。単に楽しいからでなく、様々な場面で笑顔を作る。動物の中で笑うのは人間だけであるが、後天的な能力ということではない。赤ちゃんは良く笑い、また相手の笑い顔を認識する。笑顔を作ることで、好意がもたれるようにふるまう先天的な弱者の戦略であると言われている。

またアメリカ人はより笑う。エレベーターなどで知らない人とともになり、目が合えば微笑む、という日本人にはないマナーもあるぐらいだ。これは、多民族で「ローコンテクスト」なアメリカ社会では、何者であるかわからない他者と出くわし緊張がうまれる。そのときに「敵意がないこと」をあえて表現し、その緊張を緩和するためだと言われる。

「ハイコンテクスト」社会である日本で、そこまで他者への緊張はなく、むしろ知らない他者との間は無表情でいることが求められる。外国人にはこの無表情が落ちつかず、不安になるらしい。

後期ヴィトゲンシュタインが「言語ゲーム」で示したのは、人間のコミュニケーションが確実なものではなく、それでも多様なコミュニケーションが可能であることの不思議さだろう。たとえばヴィトゲンシュタインによると、「痛い!」という発話は、私の感覚の記述でなく、他者への表出である。人間において、「痛み」とは、それを体験し、その表現法をマスターしていくことで獲得されるものでしかない。だから先天的なゼロ学習としての拘束された動物の表現に対して、人間の表現は、多様で柔軟性をもつと言える。

「笑い」は他者への「敵意のないこと」を示すというコンスタティブ(事実確認的)な意味をもつとともに、コンテクスト(文脈)に会わせたパフォーマティブ(行為遂行的)な意味をもつ。いわば、「敵意のない」という「笑顔」を一つの道具として、多様なコンテクストで行為が行われる。たとえば「微笑み」が謎であるのは、無限の意味を持ち得るからである。

このような特徴は「笑い」以外に、「怒り」、「泣き」などすべての表現においていえることである。たとえば「嘘泣き」とは、「泣き」という道具を活用した表現であるし、人は怒るときになかなか我を忘れることはない。どこか演技的(パフォーマティブ)である。しかしその中でも、「笑い」ほどに、多様性があり、柔軟性をもった表現方法はないのではないだろうか。

人間のコミュニケーションが不確実なものならば、まさに「笑い」が必要とされるだろう。すなわち「笑ってごまかせ」である。それはなぜ人間にのみに「笑い」があるのか、という答えにもなっているのではないだろうか。すなわち人間が言語を手に入れ、多様性を獲得するとともに、不確実なコミュニケーションを補完する機能として、人間は「笑い」を作りだした。誤魔化す(場を繕う)ことこそが「笑い」の役割であるということだ。


「痛み」、「怒り」、「泣き」などのその他の表現に比べて、「笑い」はその始まりから、コンテクストと高い親和性をもっている。だから「笑い」をうまく活用することで、能動的にコンテクスト(場の空気)を操作することを可能にする。すなわち多くにおいて「笑い」は政治的である。

たとえば「ユーモア」によって、友好的な雰囲気を作り出す。大げさに笑うことで、その場の価値を決定し、主導権に握るなど、操作を可能にする。たとえば商品の強引な勧誘などではこのような「笑い」がうまく使われる。人は「笑い」に対しては笑いで答えてしまう。そのときにはすでに場に拘束されている。

さらにはこのような笑いが武器として発揮されるのが、アイロニーである。アイロニーは相手をコンスタティブ(事実確認的)とパフォーマティブ(行為遂行的)のダブルバインド状態におき、意味の宙ずりにする。たとえば皮肉なことをいいながらの、薄ら笑い、鼻で笑う、苦笑い、含み笑い、不適な笑み、謎の微笑みなどで、意味の決定を宙づりにして、相手を不安におとしいれる。

権力者がよく笑うのは、権力をもつという優越感からではなく、それが政治的であり、権力を維持する能動的な行為であるためだ。


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