なぜ「かわいい」が氾濫するのか
pikarrr

「カワイイウォーズ」


大人気のカリスマモデル“エビちゃん”。販売絶好調のファッションビル“渋谷109”。2万人近い女の子が熱狂するファッションショー“東京ガールズコレクション”…。いまファッション界で人気を集めるものに共通するのは女の子たちの「かわいい」という声だ。

製品の品質やブランドのネームバリューより、「かわいい」と感じたものをその場で消費するようになった女の子たち。そんな女の子たちが消費者代表となったファッション業界では、いま、長年の作り方や売り方を根本から問い直すような変革が始まっている。アパレルのプロを排除して企画されるデザイン。年々短くなる流行サイクルに対応するための超ハイスピード生産。実際の店舗を持たず、24時間女の子の消費をキャッチするネット販売の出現…。

NHK特集 「東京カワイイウォーズ」 http://www.nhk.or.jp/special/onair/060924.html

少し前、現代の女性にとって「かわいい」がいかに重要か、NHKで特集をしていた。「これかわいぃ〜」と言わせることが女性たちの購買につながり、商品のヒットとなる、ということだ。番組の中に、現代の「かわいい」教の教祖であるエビちゃんが、商品開発に起用される場面があった。様々な試作品を作っていく中で、エビちゃんの「これかわいぃ」が重要な判断基準になる。あるいは女子高生たちを集めて、その「かわいい」という感性によって、デザインを決定していく。

これはマーケティングにおいて「かわいい」が重要になっている、という単純なことではないだろう。現代において「かわいい」の使われ方は、従来と大きくかわっている。たとえば女性がグロテスクな人形に、あるいはくたびれたサラリーマンのオヤジに、あるいはアンガールズに対して「かわいい」というとき、なにを意味しているのだろうか。そもそも「かわいい」とはなにかということが問題なのである。


誰もが「かわいい」に依存している


社会の流動性が高まる中で、むやみに他者へ干渉することは避けられるようになっている。たとえば電車の中など人が集まる程に、無関心であることが重要である。
だから儀礼的無関心という場の空気を破って、コミュニケーションすることはとてもストレスが高い。

たとえば場を和ませる話題としてシモネタ(エロ話)がある。とくに男同士でシモネタをすることで、タブーを犯すような秘密の共有がおこり、親密さが増す。このようなことは今でも有用だろうが、それでも「儀礼的無関心」の中、シモネタはあまりにプライベートすぎ、一歩間違えば、他者を不快にして、場を凍らせてしまう。そしてその親密さをはかろうという勘違いが「セクハラ」に繋がることもある。

このように多くの話題が、デリケートな場の中で淘汰されているからこそなおさら「かわいい」が浮上しているのではないだろうか。「かわいい」存在を担保にすること、あるいは自ら「かわいく」ふるまうこと(幼稚化)で、コミュニケーションを円滑に進める。このような意味で、「かわいい」は現代のマジックワードである。

儀礼的無関心の中で、赤ん坊をつれた母親に「かわいいね」と見ず知らずのおばさんが話しかけたり、あるいは犬を散歩させている人に女の子たちが「かわいい!」と集まっている光景がある。たとえば女性は場の緊張を懸命に緩和させために、「その服かわいいね」、「そのアクセサリーかわいぃ〜」と言い合う。あるいは、ナンパテクとしてその女性が飼っているペットの話題をすることで、警戒をとくというものがある。

またこれは女性だけの傾向ではないだろう。少し前に「癒し系」ブームがあったが、ここでに「かわいい」の原理が働いている。ペットに癒されるというとき、それは「かわいい」ということである。あるいは「癒し系アイドル」も同様にそこに「かわいい」が担保にされている。

このような意味で現代の人々はなんらかの「かわいい」に依存している。おじさん、おばさんはペットなどの「かわいい」に癒される。女性達はキャラクターグッズや、ファッションの「かわいい」に包まれる。そして青少年たちはアイドル、オタク的アニメキャラクターの「かわいい」に「萌え」ている。


空気を読むというストレスから解放


この「かわいい」の力とはなんだろうか。それは「ベタ」ということではないだろうか。たとえばペットは「ベタ」である。嬉しいときははしゃぎ、悲しいときには鳴く。場の空気を読むことがない。だから彼らとのコミュニケーションにおいて、こちらも「空気を読む」必要がない。

流動性の高い現代社会においては、強制的に様々な他者と接することが求められるが、社会的なコミュニケーションにおいて、相手が気に入らないからといって不快な態度を示しては、コミュニケーションは成立しない。気に入らない相手でも、場の空気にあわせて、「メタ」な儀礼的な態度、役割を演じあう必要がある。そして儀礼的無関心にも代表されるような、場の空気を読み、メタなふるまいは、「ベタ」との解離によるストレスを産む。それがストレス社会である。

いいオヤジがペットと話すときに赤ちゃん言葉になるという滑稽な光景があるが、ペットという無防備に「ベタ」な存在に接することで、空気を読むという「メタ」の読み合いのストレスから解放され、癒される。そこには安心とともに、優越がある。たとえば女性が「おやじ」を「かわいい」というとき、「かわいい」のは「おやじ」のベタさである。女性はある意味で男性以上に儀礼的な人間関係につかれている。そして「おやじ」のベタさへ、安心し、優越し、またコミュニケーションを円滑にするための担保にされるのだ。


オタクは「萌え」ることで「かわいい」にむかう


斎藤環は、オタク文化に共通するつよい少女像を「戦闘美少女」と呼び、その特徴として、「ヒステリー性」「セクシュアリティ」を上げている。

「新世紀エヴァンゲリオン」のヒロイン「綾波レイ」・・・彼女の空虚さは、おそらく闘う女性すべてに共通する空虚さの象徴ではないか。・・・「無根拠であること」こそが、漫画・アニメという徹底した虚構空間の中では逆説的なリアリティを発生されるのだ。

ファリック・ガールは、自ら性的な魅力について無自覚、無関心である。言い換えるなら無関心でありながらも、性的魅力を発揮せずにはいられない。こうした無関心さと、それを裏切る誘惑的な表象とのギャップは、ヒステリーの最大の特徴である。無関心さ、例えば無垢かつ天真爛漫な振る舞いこそが最大の誘惑となりうるということ。それはしばしばヒステリー患者が示す「良き無関心」と呼ばれる態度にひとしい。・・・「ヒステリー者の性器は脱性化され、身体はエロス化される。」・・・ここで重要なのは、受け手であるわれわれ自身が、彼女と性交渉を持つことができないという事実のほうだ。けっして到達できない欲望の対象であるからこそ、彼女の特権的な地位が成立すること。

対象にリアリティを見いだすとき、われわれは享楽の痕跡に触れている。・・・ファリック・ガールが戦闘するとき、彼女はファルスに同一化しつつ戦いを享楽し、その享楽は虚構空間内でいっそう純化されたものとなる。・・・ファリック・ガールに対しては、われわれはまず彼女の戦闘、すなわち享楽のイメージ(リアリティ)に魅了され、それを描かれたエロスの魅力(セクシュアリティ)と混同することで「萌え」が成立する。

「戦闘美少女の精神分析」斎藤環 (ISBN:4480422161)

ここでいうヒステリー性(=無関心さ、無垢かつ天真爛漫な振る舞い)は、「ベタ」に繋がるだろう。空気を読むことなく、だた「ベタ」に突き進む。「綾波レイ」の空虚さは徹底的に「メタ」を排除している「ベタ」なヒステリー性である。

斎藤はこのような戦闘美少女のヒステリー性が性的魅力(セクシュアリティ)を発揮することでオタクが「萌え」る、ということだ。オタクが戦闘美少女へ向かう背景として、ストレス社会からの解放(癒し)ということがあるのではないだろうか。

現代において、昔の男性的(男らしさ)という寡黙、無骨は、コミュニケーションを凍らせ、ストレスを増すだけだ。だから男性であっても、女性的な柔らかさが求められる。女性がなんでも「かわいい」と連呼することでストレスを回避するように、オヤジがペットに赤ちゃん言葉をしゃべるように、オタクたちは「萌え」るのである。

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