「カワイイウォーズ」
少し前、現代の女性にとって「かわいい」がいかに重要か、NHKで特集をしていた。「これかわいぃ〜」と言わせることが女性たちの購買につながり、商品のヒットとなる、ということだ。番組の中に、現代の「かわいい」教の教祖であるエビちゃんが、商品開発に起用される場面があった。様々な試作品を作っていく中で、エビちゃんの「これかわいぃ」が重要な判断基準になる。あるいは女子高生たちを集めて、その「かわいい」という感性によって、デザインを決定していく。 これはマーケティングにおいて「かわいい」が重要になっている、という単純なことではないだろう。現代において「かわいい」の使われ方は、従来と大きくかわっている。たとえば女性がグロテスクな人形に、あるいはくたびれたサラリーマンのオヤジに、あるいはアンガールズに対して「かわいい」というとき、なにを意味しているのだろうか。そもそも「かわいい」とはなにかということが問題なのである。 誰もが「かわいい」に依存している 社会の流動性が高まる中で、むやみに他者へ干渉することは避けられるようになっている。たとえば電車の中など人が集まる程に、無関心であることが重要である。だから儀礼的無関心という場の空気を破って、コミュニケーションすることはとてもストレスが高い。 たとえば場を和ませる話題としてシモネタ(エロ話)がある。とくに男同士でシモネタをすることで、タブーを犯すような秘密の共有がおこり、親密さが増す。このようなことは今でも有用だろうが、それでも「儀礼的無関心」の中、シモネタはあまりにプライベートすぎ、一歩間違えば、他者を不快にして、場を凍らせてしまう。そしてその親密さをはかろうという勘違いが「セクハラ」に繋がることもある。 このように多くの話題が、デリケートな場の中で淘汰されているからこそなおさら「かわいい」が浮上しているのではないだろうか。「かわいい」存在を担保にすること、あるいは自ら「かわいく」ふるまうこと(幼稚化)で、コミュニケーションを円滑に進める。このような意味で、「かわいい」は現代のマジックワードである。 儀礼的無関心の中で、赤ん坊をつれた母親に「かわいいね」と見ず知らずのおばさんが話しかけたり、あるいは犬を散歩させている人に女の子たちが「かわいい!」と集まっている光景がある。たとえば女性は場の緊張を懸命に緩和させために、「その服かわいいね」、「そのアクセサリーかわいぃ〜」と言い合う。あるいは、ナンパテクとしてその女性が飼っているペットの話題をすることで、警戒をとくというものがある。 またこれは女性だけの傾向ではないだろう。少し前に「癒し系」ブームがあったが、ここでに「かわいい」の原理が働いている。ペットに癒されるというとき、それは「かわいい」ということである。あるいは「癒し系アイドル」も同様にそこに「かわいい」が担保にされている。 このような意味で現代の人々はなんらかの「かわいい」に依存している。おじさん、おばさんはペットなどの「かわいい」に癒される。女性達はキャラクターグッズや、ファッションの「かわいい」に包まれる。そして青少年たちはアイドル、オタク的アニメキャラクターの「かわいい」に「萌え」ている。 空気を読むというストレスから解放 この「かわいい」の力とはなんだろうか。それは「ベタ」ということではないだろうか。たとえばペットは「ベタ」である。嬉しいときははしゃぎ、悲しいときには鳴く。場の空気を読むことがない。だから彼らとのコミュニケーションにおいて、こちらも「空気を読む」必要がない。 流動性の高い現代社会においては、強制的に様々な他者と接することが求められるが、社会的なコミュニケーションにおいて、相手が気に入らないからといって不快な態度を示しては、コミュニケーションは成立しない。気に入らない相手でも、場の空気にあわせて、「メタ」な儀礼的な態度、役割を演じあう必要がある。そして儀礼的無関心にも代表されるような、場の空気を読み、メタなふるまいは、「ベタ」との解離によるストレスを産む。それがストレス社会である。 いいオヤジがペットと話すときに赤ちゃん言葉になるという滑稽な光景があるが、ペットという無防備に「ベタ」な存在に接することで、空気を読むという「メタ」の読み合いのストレスから解放され、癒される。そこには安心とともに、優越がある。たとえば女性が「おやじ」を「かわいい」というとき、「かわいい」のは「おやじ」のベタさである。女性はある意味で男性以上に儀礼的な人間関係につかれている。そして「おやじ」のベタさへ、安心し、優越し、またコミュニケーションを円滑にするための担保にされるのだ。 オタクは「萌え」ることで「かわいい」にむかう 斎藤環は、オタク文化に共通するつよい少女像を「戦闘美少女」と呼び、その特徴として、「ヒステリー性」と「セクシュアリティ」を上げている。
ここでいうヒステリー性(=無関心さ、無垢かつ天真爛漫な振る舞い)は、「ベタ」に繋がるだろう。空気を読むことなく、だた「ベタ」に突き進む。「綾波レイ」の空虚さは徹底的に「メタ」を排除している「ベタ」なヒステリー性である。 斎藤はこのような戦闘美少女のヒステリー性が性的魅力(セクシュアリティ)を発揮することでオタクが「萌え」る、ということだ。オタクが戦闘美少女へ向かう背景として、ストレス社会からの解放(癒し)ということがあるのではないだろうか。 現代において、昔の男性的(男らしさ)という寡黙、無骨は、コミュニケーションを凍らせ、ストレスを増すだけだ。だから男性であっても、女性的な柔らかさが求められる。女性がなんでも「かわいい」と連呼することでストレスを回避するように、オヤジがペットに赤ちゃん言葉をしゃべるように、オタクたちは「萌え」るのである。 |