2ちゃんねる化する社会
pikarrr


コミュニケーションは必ず失敗する


言語行為論に「コンスタティブ/パフォーマティブ」という考え方がある。たとえば母親が子供に「好きにしなさい!」としかるとき、コンスタティブな意味、すなわち文章そのままの意味は「好きなようにしていい」であり、パフォーマティブな意味、その文章によって指示される意味は、「かってなことはするな」である。このようなパフォーマティブな意味=「真意」の読みとりは、それが言ったのは母親である、怒っている、などなどの、メタレベルでその場の状況(コンテクスト)が理解されて始めて、理解できるものである。「空気を読む」と言う場合の空気はコンテクストを指すだろう。

コミュニケーションは、本質的には「コンスタティブな情報を伝えあうこと」と理解されるが、コンスタティブな意味のコミュニケーションだけでは、意味は確定できない。

コンテクストないし文脈という概念を完全に無視しうる立場はありえない。それほどわれわれにとって「コンテクスト」は自明にして必須のものだ。「コンテクスト」を排除した瞬間、われわれは読むことも書くこともできない存在になる。

「フレーム問題」とは、ある行為ないし意味を選択するに際しては、フレームすなわちコンテクストが必要になるが、正しいコンテクストが与えられるためには、行為や意味が先行して選択されていなければならない、という逆説だ。人口知能研究が抱える原理的な困難のひとつがこれである。

「文脈病」斉藤環 P294(ISBN:4791758714)

どれだけコンスタティブな意味の説明を繰り返しても、すべてを伝え、理解してもらうことは不可能である。だから「誰が、どのような気持ちで、どのような状況」で、それを言ったのか、というメタレベル、すなわちコンテクストによって理解は成立しているのだ。

しかし「フレーム問題」、あるいはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論などが教えるのは、その場のコンテクストはこうだ、ということが先行せずに、事後的に確認するしかない、ということだ。すなわちコミュニケーションとはこのようなコンテクストが共有されているだろうというによってしか成立しない。いわば、「コミュニケーションは必ず失敗する」ということでもある。


たとえば、大都市のスクランブル交差点で人々はなぜぶつからずに歩くことができるのだろう。それは慣れてしまえば、本を読みながらでも渡ることができる。そこにはこの場合には相手はこのように動くというような「暗黙の了解」がある。しかしそれはあくまで自分の思いこみでしかなく、他者が必ずしもそのように動くとは限らない。そしてこのような「暗黙の了解」は、絶えず意識しなくとも、「慣習的プラクティス」として網に書き込まれている。

われわれの経験とは、われわれの経験している通りのものではない。人は、慣習的プラクティスの網のなかにいて、ここかしこでこれを作動させては自分の信念を証拠だてる経験を得、また眠りにもどる。ときたま起こるさまざまなフレーミングの誤作動や破綻は、場のリアリティを揺るがし、むしろそれぞれの場のリアリティのプラクティカルな構成を強化・確定する方向に働く。当面の経験を離脱しようとするにせよ、二次的適応や自己欺瞞に従事しようとするにせよ、あるいはフレームを掃除/確認したり変容させようとしたりするにせよ、経験のなかにいる限り、人はフレーミングの循環を逃れることができない。

「ゴフマン世界の再構成」安川一 (ISBN:4790704033 )

目上の人には敬語を使う、子供をかばう、エレベーターの中で一人ごとをつぶやかない、真剣な場ではふざけない、医者への暗黙の信頼などなど、社会性はこのような「慣習的プラクティスの網」という他者とのコンテクストの共有関係で成り立っている。

しかしどんなにその場に馴染もうとも、コンテクストは自分の中にしかない。「慣習的プラクティスの網」の他者との共有は、完全に一致することはなく、共有されているように振るまわれているだけであり、いつすれ違うかもわからない「暗黙の跳躍(ヴィトゲンシュタイン)」によって成り立っている。


記号消費と人格消費


たとえば初対面の人との現前の会話(パロール)は緊張を強いられるものである。そのようなときに、その人の会話のコンスタティブな意味を理解しながら、また平行して懸命に場を読み、コンテクストを共有させようとする。そのために、その人についての多くの情報をえようとする。その人の年、格好、容姿、表情、話し方、声の調子など、そしていままでの経験から懸命に、その人の「人物像」を作り上げる。

このような相手について情報は、初対面の人だけではなく、知り合いとの会話でも重要である。「あの人がいうなら」、「あいつがいうことは」、というように、同じコンスタティブな意味でも、その「人物像」によって、理解の仕方は大きく左右される。

ネットコミュニケーションの多くは、テキストベースでコミュニケーションされるために、伝達される情報量が少ない。さらに、多くが匿名の他者であるために、特に相手の情報が決定的に欠落している。それは、書かれた文字そのままのコンスタティブな意味が伝わるが、メタレベルのコンテクストが伝わりにくい。

たとえば先ほどの母親が子供に「もう、好きにしなさい!」という例を、ネット上の第三者で考えるみる。発信者が「好きにしなさい」と書き込んだとき、コンスタティブな意味として「好きなことをしていいよ」か、「かってなことはするな」か、より曖昧になる。実際のコンテクストはさらに複雑であり、それはその場では意味を持たない単なるコピペかもしれない。

ボクは、コンスタティブな意味、そのままの意味を理解することを「記号消費」で呼び、またコンテクストの中で、特にその発話を「誰が、どのような気持ちで、どのような状況で、」発言したのかという、相手に関する情報を理解することを「人格消費」と呼んだ。

そしてネットコミュニケーションの特徴として、コンテクストの中でも特に、その発言を誰が、どのような状況で、どのような気持ちを込めて、発言したのか、ということが伝わらず、欠落するということ、「人格消費」が決定的に欠落する。このような「人格消費」の困難は、「暗闇の跳躍」をより困難なものにして、ボクたちは宙づり状態におかれる。

たとえば2ちゃんねるに「論理で負けると人格攻撃!」というフレーズがある。コンスタティブな会話のやりとりで、宙づりにされた緊張が崩れたときに、相手の人格を攻撃する発言をする傾向がある。コンスタティブな文章のフリをして、チクチク嫌みをいう、あるいは、「えらそうにいっても、引きこもりだろう。」「知ったかぶりだけだね。」などなどの中傷合戦になる。


愛と憎悪のネットコミュニケーション


それほどまでして、「なぜコミュニケーションするのか」、ということがある。特にネットはコミュニケーションを容易にしたが、それほど人は伝えることがあるのだろうか。コミュニケーションは、情報をつたえるために行われるのではない。人には伝えることなどそうそうない。そうではなくて、コミュニケーションすることが目的なのである。

たとえば、ラカンによると、ボクたちは自分だけでは、自分が何ものであるか見いだすことができない。そのために他者との鏡像関係において、自分をが何ものであるか、見いだそうとする。それが、「欲望とは、他者の欲望である。」ということである。まさにここに「なぜ人はコミュニケーションするのか」の理由がある。そしてこのような想像的な転移の関係は、「他者がほしがっているものがほしい」、「他者のようになりたい」という、「イマジネール(想像的)な死闘」へ繋がる。

それに対して、コンテクストの共有とは、「慣習的プラクティスの網」ように、社会の規範(象徴界)として人々を拘束することによって、このような「イマジネール(想像的)な死闘」を回避させている。このように考えると、コンテクストの共有の希薄化は、社会的な拘束からの解放を促す。ネットコミュニケーションは、匿名性などによるコンテクストの共有の希薄化であり、それによる従来の社会性から離脱する。そしてそれがネットの「無法地帯」となりやすい一因である。

このコンテクスト共有の希薄化の影響は、単にネットコミュニケーションでは人々が非社会的な行為(荒らし)をする、というだけではない。多くにおいては、真面目な議論が突然、人格をかけた「死闘」へと転倒し、その場そのものを破壊する可能性がある。社会性を取り払い、他者が剥き出しする、とともに、「人格消費」を欲望することを加速させる。ネットコミュニケーションは、「なぜコミュニケーションするのか」、ということが純化される。なにかを情報を伝えるために、宙づり状態を回避するのではなく、宙づり状態を回避すること、「人格消費」することそのものが、欲望されるのである。

「ネットコミュニケーションは楽しい。」だからみな、ネットへ向かうのである。より困難であるはずの、ネット上の「暗闇の跳躍」が成功したように感じた時が、誰にでも経験があるだろう。それは社会的な慣例的な関係を越えて、「真意」を交換したように感じる。これが「ネットコミュニケーションの快楽」であって、ネット中毒が起こる要因だろう。

たとえば、ネット上はとても開放的なイメージがあるが、思いの外、閉鎖的である。多くは個人のホームページや、ブログ、あるいは興味を同じくする人たちの掲示板など、閉鎖的に、個人あるいは「知り合い」の小さなコミュニティで成り立っている。

そのような場にレスをすることは、注意をようする。できれば、丁寧な挨拶のもとに発言する必要がある。それは、レスされる方がむしろ警戒するからである。なぜなら、レスする方はすでに過去ログをみて、相手のことを知っているが、レスされる方は、新参者がどこのだれかわからないものとして登場するからである。そしてこのような警戒は、新参者が荒らしである可能性があるからではなく、「イマジネール(想像的)な死闘」へと転倒するためだ。


2ちゃんねるはなぜ成功したのか?


では、このようなネット上のディスコミュニケーションにおいて、2ちゃんねるはなぜこれほど活発なコミュニケーション場を作ることができたのだろうか。2ちゃんねるの成功は、突然起こったわけではなく、その前段階の先鋭的なネットサーファーたち(死語!)の様々な試みの繰り返しの結果としてあるだろう。

まず2ちゃんねるの有効性は、「名無し」を徹底したことだろう。「名無し」の場合には、「フレーミング(言い合い)」が発生しても、相手を継続的に特定できず、「イマジネール(想像界の)な死闘」は一時的なものでしかなくなる。

しかし決定的に重要なものが、ボクが「2ちゃんねるスタイル」と呼んだものである。2ちゃんねるでも、当然、あちこちで、「イマジネール(想像界の)な死闘」というマジとマジの対立が起こるだろう。しかし、2ちゃんねるでは、衝突すると「なにマジになってるんだ。マジのふりで言ってみただけだろう。」というメタレベルへ退避することがおこなわれる。

2ちゃんねるでは、「マジに没入せずに、たえずメタレベルの確保を忘れない」ということは、もはや「暗黙の儀礼」であり、それが2ちゃねらーである。たとえば2ちゃんねる初心者や、マジな人は、マジで会話し、白熱したところで、2ちゃねらーが急に、「ネタにマジレス、格好悪い」とメタレベルへ退避する。このような対応は、悪ふざけでしかないとうつるだろうし、真面目な人にはあまり気持ちの良いものではないかもしれない。

しかしこのような「儀礼」は、新たなひとつのコンテクストの共有の形態であり、「イマジネール(想像界の)な死闘」を回避するひとつの社会性である。そしてこれによって、ネット上の言いたいことが言えるような環境が確保され、2ちゃんねるが集客に成功したのだ。

2ちゃんねるは、ショッキングな事件としてマスメディアへ取り上げられたり、通信環境がよくなったり、することによって、さらに集客力を増大させた。ネット上では集まるところに人は集まる傾向がある。そしておそらく本来は、マジな会話を行うための回避策であった「2ちゃんねるスタイル」は、「2ちゃんねるスタイル」として様式化され、メタがネタとして、「2ちゃんねるスタイル」そのものが目的化している。

ネタ的コミュニケーションとは、コミュニケーションそのもののテンプレートへの言及を重ねて行われる、すべてがネタであるかのように振る舞うコミュニケーションの形式。例えばある書き込みにレスをつける際に、2ちゃんねるではまじめに返答することが必ずしも求められない。むしろ本来返答すべき解答とは微妙にズレた回答をすることでおもしろさを演出していこうとする。さらに興味深いのは、そのようなズレた回答へのさらなる(ズレた)言及が、全体としてコミュニケーションを切断させることなく続けていくという点だ。すべてがネタである「かのように」振る舞うネタコミュニケーションは、どんなに本気にコミュニケーションをしようとしても周囲から「ネタ」として言及される対象なる可能性をはらんでいる。・・・ネタと了解されるものを本気でレスを返すと、「マジレス」を揶揄される(そしてマジレス自体がネタとして消費される)ことになる。

ネタ的コミュニケーションの本質とは、このよな再帰的な運動の中でコミュニケーションそれ自身を自ら構成していくということだそのことは自体はもはや自己目的化しており、ネタ的コミュニケーションが何かの目的に向かうということはあり得ないだろう。

暴走するインターネット 鈴木謙介 (ISBN:4872573021)

ここでは、レスのコンスタティブな意味は、もはや意味がない。コミュニケーション継続が目的化される。そして、さらには、ネタ的コミュニケーションの目的化は、サイバーカスケード(炎上)としての快楽を目的としてしまう。

サイバーカスケードとは、ネット上に起こったイラク人質事件への自己責任論のように、「小さな発言」が集まって自己組織的に大きな力として立ち上がってくるものです。それが、良い方向に向かうと新潟地震に対する救済支援活動のネット上での展開のように動きとなり表れ、「創発」と呼ばれます。しかしサイバーカスケードと創発性はネット上に現れる自己組織化現象であり、コントロール不可能な両義的なものです。

ようは、「そのうごめきには不透明さと無根拠さがつきまとうハイパーポピュリズムとでも呼ぶべきもの」である2ちゃんねる的なものにどのように対峙していけばいいのか、ということになるのではないでしょうか。今回の議事録からも、知識人たちに広がるこのようなコントロール不可能性へのショック=「2ちゃんねるショック」とでも言うものがあるように感じました。・・・ネット上のただのおしゃべりが、「世界へ発せられる言葉」となり、自己組織的にサーバーカスケードとして現れます。それは、「主体なき言葉」です。(pikarrr)

なぜ知識人は2ちゃんねるにショックをうけるのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20041204


2ちゃんねる化する社会


2ちゃんねるの成功は、ネットが根本的にもつディスコミュニケーションを乗り越えるネタ的コミュニケーションをスタイルとして確立したことによる。しかしさらに2ちゃんねるが成功した大きな要因として、マスメディアとの関係があるだろう。2ちゃんねる住人はバスジャック事件など、マスメディアで取り上げられるごとに増加した。そこでは、それは「モラルのない無法集団」という不気味な反「大衆」的として報道された。そして「2ちゃねらー」はこのようなマスメディア的「大衆」と対立することで、より自らの存在意義と帰属意識を確立していった。

しかしここ数年で、マスメディアと2ちゃんねるの関係は大きくかわった。もはやマスメディア的大衆/無法集団2ちゃねらーという対立構造は解体されている。

最近、KY(空気を読めてない)というように、社会そのもののディスコミュニケーションが問題になっている。「空気(コンテクスト)を読め」というのは、「そこに空気があることを知れ」ということであるが、そもそもそのはじめにコンテクストは共有されおらず、「空気(コンテクスト)を共有するように努力しろ」という、場に秩序を求める願望ということだろう。このような儀礼的な無関心に対するより強い同調圧力には、他者との不干渉への不安からのヒステリックさがある。

このような背景もあり、最近、社会の「2ちゃんねる化」というような現象がある。すなわち実社会でのディスコミュニケーションにおいて、ディスコミュニケーションを乗り越えるための一つの方法として、「2ちゃんねる」的なものが反乱しつつある。

たとえば、最近なにか不条理なことを知ると、ネットで騒ぎになって、それがマスコミで取り上げられ、さらに広がることで、「世論」が世を正してくれると期待してしまう。しかし「バッシング」を見ていて感じる薄気味悪さはなんだろう。処罰をこえて、人格攻撃にいたる人々のヒステリックさ。その人格はいままで魅力であったところそのものである。最近、バッシングが途絶えることがない。安部首相と大臣、朝青龍、沢尻エリカ、倖田來未・・・

この力は、以前は、2ちゃんねるだけで閉じられていたサイバーカスケード(炎上)であるが、イラク人質バッシングや小泉支持あたりから、ここ数年でマスメディアを巻き込み、大衆を巻き込む現象に成長した。この「世論」の新しさは、ネットのインタラクティブ性という技術によって、人々の反応を迅速に表示するという応答性によって、人々の興味を短期に一点に集中する力として現れる。

売れているものがメディアに取り上げられることで注目度を増し、さらに売れるというスパイラル現象・・・が起き、一極集中へとひた走る。そうした情報の流通環境を加速させているうえで大きいのは、やはりインターネット−−とくにウェブの存在だろう。

いまや誰でも何か知りたいことがあれば、パソコンや携帯電話で検索すればよい。億単位におよぶほどふんだんな情報が出てくる。しかも、情報を引き出す際には、より個人に特化(パーソナライズ)した絞り込みでセグメント(区分)することすら可能だ。・・・だが、どういうわけか、何かが起きる際には一極集中のような現象が見られる。そこにこの新しい時代の逆説的な傾向がある。・・・いま訪れつつある社会は、本当にフラットなのだろうか。もうひとつの大きな要素が見逃されているように映るのだ。・・・巨大な一極とフラット化の社会というべきか。P49-50

「グーグル・アマゾン化する社会」 森健 (ISBN:4334033695)

そして炎上は単に人々の興味を短期で一点に集中するだけでなく、その力そのものにみなが自覚的でそこに操作可能性を感じ、操作そのものな楽しむ傾向がある。さらに最近の特徴として、このアイロニーがマスコミと同期しつつあるように思う。2ちゃんねるが単なるマイナーな存在として無視できず、一般化していく中で、同期は確信的なものへ向かっている。2ちゃんねるはマスメディアからニュース(ネタ)を拾い上げる。マスメディアは拾い上げられることに自覚的にニュース(ネタ)をつくる。マスメディアにとってもこのような同期は多くの読者/視聴者を獲得するメリットがある。

このような、2ちゃんねるとマスメディアの偶然的な同期から確信的な同期へは、小さなつまずきさえあれば、もはや生け贄はだれでもよい。そこには、興味を短期で一点に集中する力に自覚的に作動させたいという意図がある。この確信さに薄気味悪さを感じてしまう。

このようなマスメディア主導の閉塞への対抗としてネットは期待された。上からの押しつけではなく、それを解体し、発散させ、横への広がりによって多様性を確保する。マスメディアが2ちゃんねるを叩くとき、そこには誹謗中傷などの様々な問題がありながらも、いままで独占してきたメディアの位置を脅かされる恐怖が確実にあった。

しかしマスメディアと2ちゃんねるの確信的な同期という共犯関係が成立してしまうと、そこに生まれるのは、終わりのない円環が加速化されるという絶望的な閉塞でしかない。


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