科学技術−国家−貨幣
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1 純粋贈与と、贈与と、交換


たとえば宝くじで10億円当たってしまうと、どのような気持ちになるのだろうか。それは飛び上がるほどのうれしさであるとともに、不安になるのではないだろうか。無償で大金を贈与されることの罪悪感がともなうだろう。

このために宗教を信仰していることとは関係なく、漠然と神に感謝するだろう。それはこの罪悪感(負債感)を解消するために必要な返礼する「他者」を想定しているのだ。神へ感謝する、あるいは慈善団体へ一部寄付する、あるいは知り合いに祝儀を振る舞うなど、も同様な行為である。

これはつゆ払いであるとともに、負債感の解消行為である。このような散財による贈与は、神=超越的な他者への返礼であり、負債感の解消である。これは迷信のようなものであるだけでなく、経済的な行為である。負債感は無意識に罪悪感として、今後の様々な行為を萎縮させるようなことがおこる。この幸運を吹っ切り、次に結びつける行為であるといえるだろう。たとえばホールインワンをするとパーティーを開く、たとえばサッカーでゴールをしたあと、神に祈る行為などにも現れている。

贈与は、贈られる者に心理的負債と返礼の義務を負わせる。逆に捉えれば、贈与者になるということは、相手の上位にたつことなのである。・・・モースにとってそれは、交換の原因をなす精神的な基礎、すなわち優越性への欲望と、引き続き生ずる負債感である。

かつてデリダは「時間を与える」において「純粋贈与」とでも呼びうるものに言及した。モースの言う贈与は、交換・交易を必然的に引き起こす。すなわち含んでいる/予定している契機であるがゆえに、真の、無償の、つまり純粋なそれではないのである−それはむしろ、「贈与交換」と呼ばれるべきものである。・・・「純粋贈与」とは究極の無償贈与であり、たとえば神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなものを想定すれはよいだろう。

純粋贈与と、贈与と、交換の差異とはいったい何だろうか。それは、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である。交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。これに対して贈与では、返礼をするまでのあいだ負債感が持続する。そしてむしろ、その持続する負債感が返礼の原動力となる。・・・さらに純粋贈与にあっては、それに対する返礼は人間業では用意できない。すなわち負債感の相殺は永遠にできないことがはっきりしているので、負債感は永続的なものとなる。

中野昌宏 「貨幣と精神」(ISBN:4888489785) 第7章 聖なるものと構造

「純粋贈与と、贈与と、交換の差異が、「負債感」の相殺にかかる時間の差異である」という中野の指摘はとても示唆的である。

純粋贈与は、「神や自然の人間に対する贈与、自然の恵みのようなもの」であるとともに、自然脅威や予測不可能な災難なども考えることができる。すなわち神や自然の人間に対する略奪である。ボクはこれを「純粋略奪」と呼んだ。

たとえば子供を殺された親はその犯人への恨みを持ち続けるだろう。そして負債を解消するように復讐を望むだろう。しかしそれは地震などの天災出会った場合には、生まれる負債感の相殺はどこにも向かうことができない。

そしてそれを解消するために神が生まれた。神という他者を想定することで、負債を解消する可能性を開く。なければ、人は決して解消されない負債の中でいきることができない。人はいきるためにたえず、純粋な贈与(略奪)に晒されてきた。それを神との贈与交換として解消する、すなわちいつかは、「負債感」の相殺できるだろうと想定することで、解消しようとする。

ここに互酬性(贈与と返礼)の起源をみることができるのではないだろうか。原始的な社会では自然の恵み、脅威という偶然性のまっただ中で、生きていた。その日常は、原因なく、幸運と不幸が降りかかる、すなわち純粋贈与(略奪)が到来する世界である。

このような原始的な社会で互酬性(贈与と返礼)が一般的であるのは、単に共同体の成員同士の助け合いというだけではなく、神という他者も含めた互酬性(贈与と返礼)を考えなければならない。だから贈与は誰かに贈与すれば、いつか返礼がかえってくるだろうという打算的な交換であるが、そのネットワークに神が含まれていることで、ボトラッチなど散財のような交換をこえた行為となる。すなわち贈与とはいつも神への返礼が含まれているのである。交換関係において時間的な延滞を引き起こすのが、この「神への返礼」だろう。

贈与は、他者との間で完結しない神の存在によって、等価交換のような瞬時に負債を解消することができない。たえず自然の恵み、脅威という純粋贈与の不確実性に晒されている以上、神への返礼、贈与せずにはおれない。そして互酬性(贈与と返礼)に参加するしかない。


2 貨幣への負債感


「交換において負債感は生じない。というよりも正確には、負債感の持続時間がゼロである。商品Aと商品Bを本当の意味で等価交換したならば、双方には心理的な貸し借りの感情は、生じるとしても瞬時に、その場で相殺されるだろう。(中野)」というとき、現実の貨幣による等価交換はどこまで負債感の持続時間がゼロである純粋な交換だろうか。

たとえばある電化製品を買った。しかしそれは期待したような特性を満たしていなかった。それは不良ということではなく、消費者が勝手に期待したものであり、製造メーカーにクレームを言うものではない。たとえば人はブランドへの信用で商品を買う場合にこのようなことが起こる。ソニーの製品だから期待して買ったのに・・・。

ここでは貨幣による等価交換が行われているが、負債感の持続時間がゼロである純粋な交換とはいえない。ブランドとは、信用という形で負債感を引き受けることを意味する。だから消費者はブランド品を好むのである。すなわちどのような等価交換であっても、相手が誰であるかという期待があり、贈与性が完全に解消されることはないだろう。


マルクスは等価交換を「命がけの飛躍」と呼んだように、交換は奇跡的な行為である。たとえばAという対象を持っている人とBという対象を持っている人が出会い、交換するためには、Aという対象を持っている人がBという対象を望み、Bという対象を持っている人がAという対象を望んでいなければならないという「奇跡的な出会い」が必要である。

貨幣はこれらの間を結ぶ位置にいる。Aという対象を持っている人もBという対象を持っている人もまず貨幣と交換することで、等価交換を容易にする。貨幣を持つと言うことは商品に対して優位な位置にたつことを意味する。

さらには交換では、AとBというまったく共通項のない対象の間に、どのように等価を決定するのか、という問題がある。商品の価格はいくらでも好き勝手に決めることができるだろう。あめ玉一つを1億円をして売っても、それは売り手のかってである。しかし当然誰も買わない。だから商品の価値とは交換されることで事後的にしか決まらない。

そしてここでも貨幣は優位な位置をもつ。商品は貨幣と交換されることで初めて価値を持つ。商品を売る人は売ってもらうのであり、貨幣で買う人は買ってあげるという非対称な関係が生まれる。資本家は労働者から労働力を買ってあげる、労働者は労働力を買ってもらうという非対称性に一つの搾取の構造がある。消費でいえば、消費者は商品を買ってあげる。資本家は商品を買ってもらうという非対称である。


このような交換関係をラカン的に考えてみると、先の互酬性(贈与と返礼)では、以下のような関係で整理される。

原始社会では、自然のめぐみ、脅威という不確実性を生きる。人は不確実であることを受け止めることはできない。このために自然を神という交換可能な(超越的な)他者とし、不確実性を負債とする。不確実性には(交換)コミュニケーションは存在しないが、負債とはいつかは返礼できる。そこに交換関係が成立しているように、コミュニケーション可能な誰かがいるように振るまう。

話しかけてもコミュニケーションが成立しない力とはなんと脅威であろうか。話せば分かることで人は安心することができる。自然のめぐみは神からの褒美であり、天災は怒りというメッセージである。それを受け止めて適切に返答することで、自然をコントロールする(できるように振るまい安心する)。

ラカン的互酬

現実界(不確実性)・・・純粋贈与(略奪)、自然のめぐみ、脅威→外傷的→外部からの一撃

想像界(構造を動かす動力)・・・外傷をさけるために神を想定し、贈与(交換=コミュニケーション)が可能なように振るまう→神(自然)に対して人は負債を負う→交換に贈与性(神への贈与)を混入し負債を返礼する

象徴界(社会的な構造化)・・・構造化された互酬性(贈与の儀礼化)


ついで同様に貨幣交換を考える。異なる対象を等価に交換することは、「命がけの飛躍」であり、不確実である。なににおいて等価とするのだろう。そこには絶えず、闘争(略奪)の可能性がある。そこに絶対的な価値観としての貨幣を媒介する。貨幣価値化されたものは絶対的なものであり、従うしかないと考えられる。

貨幣価値は交換価値として市場で決定されると思われているが、それも一つの神話である。たとえばメーカーは市場に出回る前に価格を決定する。ここにはマルクスのいうような労働時間(人件費)など加工費は考慮されるが、最終的にはこの商品ならこれぐらいかな、という戦略的、偶然的に決定される。だから貨幣は神の位置にいる。資本家と労働者の非対称性であり、お客様は神様なのである。

ラカン的貨幣交換

現実界(不確実性)・・・純粋な等価交換(負債感の持続時間がゼロ)→利害による闘争(略奪)の可能性

想像界(構造を動かす力)・・・闘争(略奪)をさけるために、神(貨幣という絶対的な価値)を想定し、等価交換(交換=コミュニケーション)が可能なように振るまう→貨幣に対して人は負債を負う(買ってもらう立場)、貨幣を持つ者は神様→交換に贈与性(貨幣への返礼)を混入し負債を返礼する。売るときに返礼が働く。

象徴界(社会的な構造化)=構造化された貨幣交換関係(貨幣交換の儀礼化)

貨幣交換は負債感の持続時間がゼロではない。心理的な貸し借りの感情は生じるとしても瞬時にその場で相殺されるようなものではない。交換関係が成立しているように振るまうことで、人は貨幣に対して負債をおう。売る立場は負債感をもつ。たとえば先のブランド戦略とは、売る立場が等価交換以上のもの(信頼=贈与性)を提供するという意味を持つだろう。

商品を売る立場は、その商品の信頼性、それはまさに売る人の信頼性をPRしなければならない。貨幣も一つの商品と考えれば、買う立場も商品(貨幣)の信頼性をPRしなければならないが、「(信頼もなにも)貨幣とは貨幣なのだ」といつも絶対的な位置にいるように振るまうのである。

しかし商品が十分多くなく、商品が希少なものである場合、逆に売る立場は強い位置にくるのではないだろうか。だが売る立場が強い位置にくるのはあくまで貨幣による価値査定の後である。稀少品もまず貨幣価値化されなければ、価値を持たない。希少商品は希少であるから価値であるのではなく、「貨幣」が稀少であると認めることで価値を持つのであり、価値を認めなければ、どのような物語があっても、私的に思い入れがあっても価値を持たない。稀少品を売る立場の強さは貨幣に従属したものでしかない。


3 科学技術−国家 −貨幣


不確実性としての外部を隠蔽し儀礼的に調停するところに「神」は生まれ、人は負債感をもち、従う。このようなラカン的象徴化装置において、贈与も貨幣も説明されるが、この装置は汎用的である。たとえば君主や国家も同様の構造にある。さらには、これはとてもよくある構造である。「浜崎あゆみ」だろうが、カリスマとはいままでにない外部を調停したものとして登場し、ファンは「いろんなモノをもらった」と負債を負うことで崇める。

すると問題はどこに不確実性としての外部を「見いだす」か、ということになる。重要な点は外部は客観的に存在するのではなく、人々が脅威であると「見いだす」ことであらわれる。

贈与も貨幣も君主も国家も浜崎あゆみも、外部を調整することで外部を作りだすという、循環論に陥る。それを断ち切るのは「生存」ではないだろうか。結局のところ生存を保障することで、その時代の「神」は選ばれる。アガンベンはシュミットを引用し、「主権者とは例外状態につ いて決定する者である。」と言ったが、ここでいう選ばれた「神」とは、誰が「例外状態」(外部と内部の境界)を調停したのか、が問題となるだろう。


原始社会において、自然が脅威であったとき、共同体と自然との関係には、自然という「神」への贈与/返礼に向かうしかない。そして贈与/返礼における負債感の持続が人の繋がりを作る。だから基本的に贈与は身近な共同体の中で行われる。これは共同体内の贈与交換に信用を与え、略奪(闘争)を排除するようなに繋がりの「強度」を生まれるだろう。それとともに共同体と共同体の間では、略奪(戦争)が繰り返される。

近代において、自然の脅威が科学技術によって管理されることで、贈与関係の繋がりは希薄化していく。ここにホッブズ的な自然状態を考えてみる。

ホッブズ的自然状態を解釈するもっとも自然で、おそらく有意義なやり方は、それを国家以前の状態と解釈するのではなく、何らかの理由で国家が解体してしまった後の無政府状態と解釈する、というものでしょう。・・・もちろんまず思いつくのが、ホッブズも意識していたであろう、文字通り戦争を通じての、国家の解体です。・・・しかしロック的=生態学的パースペクティブはもう少し踏み込むことを可能にします。・・・つまり「技術」、「生産力」のことです。・・・生産力の発展、経済成長によって、法と国家にとっての「エコロジカルな条件」は変わりうるのです。

「「資本」論―取引する身体/取引される身体」 稲葉振一郎 
(ISBN:4480062645)

贈与関係の弱体のあとのホッブズ的な自然状態を、貨幣交換による秩序だけで調停することは難しいだろう。なぜなら貨幣交換は、贈与関係ほどに強い負債感が生じにくく、繋がりの強度を生みにくい、繊細で弱いシステムであるからだ。そしてそれを補強するために国家権力が必要とされた。たとえば柄谷がいうように帝国主義において植民地で略奪が行われたのは、国家の外部では等価交換などというめんどうな方法よりも、略奪が行われたということだ。


柄谷は国家の設立の条件に、破壊力をもった火器の発明商品経済の浸透をあげた。科学技術と世界経済が権力の独占を可能にすることで、国家は可能になった。正確には、科学技術と国家と商品交換は相補的に発展し、「近代世界システム」を形成したということだ。
科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市場へ流入させる。これらの運用を国家権力が補強する。ここに「科学技術−国家(法)−貨幣」の共犯関係がある。

国家と商品交換は共同体と共同体の間で、並行的に成立する。一つの共同体が他の多数の共同体を支配するようになるとき、多数の共同体の間で生産物の交換が無事に行われるようになる。商品交換は人類史の早期段階からはじまったが、近代国家と市場経済が確立されるまで従属的・補足的である。

絶対主義王権国家は、王がこれまで王と並び立っていた多数の封建諸侯を制圧し、また教会の支配権を奪うことで成立する。これを可能にしたのが、破壊力をもった火器の発明と商品経済の浸透である。火器は・・・国家が暴力の独占に存する。商業や交易は帝国によって管理独占され、商品交換は他の交換様式を上回ることはできなかったが、絶対主義王権は商品交換の原理を全面的に受け入れる。

主権は1国だけでは存在しない、他の国家の承認によって存在する。西ヨーロッパにおける絶対主義国家(主権者)の誕生は、帝国や部族国家を主権国家として再組織し、世界的に主権国家を生み出す。また資本主義的市場経済も1国だけで考えることはできない。いったん世界市場=世界経済が成立すると誰も外部にあることはできない

絶対主義王権国家は、明かな略取−再配分をもっていいたが、市民革命以後の国家では、国民が義務として自発的に納税し再配分するため、国家は国民によって選ばれた政府と同じにみなされる。しかし国家は政府と別のものであり、国民の意思から独立した意志を持っている。国家は戦争においてあらわれる。

「世界共和国へ」 柄谷行人 要約 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903


4 貨幣交換世界の正当性


古典派ないし新古典派経済学においては、純粋状態とも呼べる経済システム像が構想された。すなわち経済主体とは自律的「個人」であり、そうした個人が「利己心」をもって「市場」で取引をするなかで「神の見えざる手」(スミス)の力によって、需要と供給の「均衡」がもたらされた。「需要」はそれをちょうど均衡するだけの「供給」を生み出した(セーの法則)。財市場だけでなく、貨幣市場や労働市場でも、つまりすべての市場で同時に均衡した(ワルラスの一般均衡理論)。個人は「商品」あるいは「財」について「効用」をもち、自分の効用を最大化に関して、「合理的」に行動し、市場の均衡点においてその集積である「社会的厚生」が最大化された(特にピグーの厚生経済学)−。

こうした市場について考え方は、まず基本的に、快楽の量は計算可能であるとするベンサムの功利主義思想に基づいているといえる。こうした「快感計算」の可能性や「合理的人間」という仮定が非現実的であることから、こうした諸々の仮定を批判したり、経済学理論全体の有効性を疑問視したりする向きもある。また第二に、過去の状態が現在を決定し、現在の状態が未来を決定するという<機械論>の考え方がベースにあると言える。

中野昌宏 「貨幣と精神」 (ISBN:4888489785) 

こうした経済学的世界では、「負債感は生じない」完全な交換が基本とされるだろう。しかしこのような経済学的貨幣交換世界はどこにあるのだろうか。

経済学の基本である効用を求める合理的な主体は消費者であるより、生産者に適応する。これらは公共的と私的に対応する。人は生産的な場面、すなわち労働の側面において公共的に振るまい、消費において私的に振るまいやすいからである。そして経済学的合理性を公共的なものとする考えそのものが近代におけるものであり、資本主義社会において目指される「科学技術−国家(法)−貨幣」というイデオロギーを表している。


科学技術は自然(労働力も含む)を解体することで資源化する。そこに時間的、空間的差異を生み出す。そして貨幣の非対称性によって、貨幣価値し市場に流し込む。これらの運用を国家権力が補強する。

これは、マルクスは資本家が(特別)剰余価値を生み出すために、技術革新が必要とされるといったが、科学技術−国家(法)−貨幣は相補的に利益を生むだけでなく、「例外状態」を制定することで、正当化される。正当化とは、生存を保証することで、神の位置に立ち、人々に負債感を与え続けているのだ。

人々は貨幣に対して負債感をえる。たとえば労働者は労働力を企業を売る時、等価交換であるはずが、有り難み(贈与性)を感じ、社長など経営陣は貨幣を与える者として、神格化される。あるいは、市民は国家(お上)に対して負債感をえる。


しかし人々の「感染」はすべて貨幣にだけむかっているわけではない。いまも、贈与関係は社会を支えている。これは、柄谷のいう「ネーション」に近いが、贈与関係の力、人の繋がりは家族、地域、あるいは人類愛のような様々な大小さまざまな領域で社会の基底として働いている。

「想像の共同体」ベネディクト・アンダーソン。18世紀西洋におけるネーションの発生。啓蒙主義、合理主義的世界観の支配の中で宗教的思考様式が衰退したところ、ネーションは宗教にかわって、個々人に不死性・永遠性を与え、その存在に意味を与える。

ネーションは、商品交換の経済によって解体されていった共同体を「想像的」に回復する。ネーションは、資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補充され解消される互酬的な共同体である。

「世界共和国へ」 柄谷行人 要約 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070903

それが明らかになるのもまた例外状態においてである。たとえばアメリカの大震災やハリケーンの大災害など、電気の不通などの科学技術が有効でなく、国家(法)による援助も不十分で、貨幣が機能していない例外状態=無法地帯では略奪が発生する。そしてだからこそ、自衛的な贈与関係が現れる。日本の震災などで、地域的な繋がり、あるいはボランティアなどの人々の助けあいが浮上してくる。


5 神々の闘争


例外状態をいかに統治し、成員の生存を確保するか、それがその時代の「神」の役目である。柄谷がいうように、グローバリズムとは、最近のことではなく、国家はそのはじめから世界経済とともに発生した。そして科学技術−国家(法)−貨幣の秩序体系は、国家の境界(グレイゾーン)で自国のために、権力を発動させる。国家権力のもと、科学技術は自然(労働力も含む)を解体して資源化し、貨幣の非対称性によって市場へ流入することで利潤をえる。ここに国家間の権力闘争があり、先進国は帝国主義的な植民地であり、南北格差問題など、合法的に権力行使を繰り返してきた。

たとえば中国が世界の工場と言われるのは、大量の人々を労働力として均質に科学的に教育し、安価に市場に投入することで、安価で質のよい人材を提供することにある。国家としての中国は、先進国との利害をめぐる駆け引きが行われる。

このような例外状態における闘争は、国内でも格差として現れるだろう。経済学者がいうようにネオリベラリズムが生み出す格差は、自由と平等による競争を容認すれば、統計学的に算出される(しかたがない)ものである、という外で、その例外状態においては権力(お金)を持つ者が優位に働く可能性が隠蔽される。「小さな政府」とは国家の力を弱めるというよりも、一つの国家戦略なのである。


現代の外部は、「回帰する純粋贈与(略奪)」として現れる。「回帰する純粋贈与(略奪)」とは、人間とは関係がない純粋な自然災害などではなく、環境資源問題、テロリズム、ネットなど、科学技術−国家(法)−貨幣の活動が生み出している例外状態で生まれる。

これを表す象徴的な物語はAIDSである。AIDSは本来、アフリカ奥地の猿に感染するウィルスであったという。これは社会の外部の存在であるが、発見されなければ、外部として認識されることもないだろう。AIDSウィルスが外部となるのは、それが内部に到来し人々に未知な物として恐怖を与えることにおいてである。


先進国の権力への反動としての現代のテロリズムも、また開拓された外部、回帰した外部である。このような権力への抵抗運動は耐えず存在するが、ビン・ラディンの脅威は、一人の金持ちが現代の「帝国」とも呼ばれるアメリカと対等に戦えているという事実である。ビン・ラディンは宗教的な指導者と近い位置にいるが、それとは異なるのは、彼が神格化されることで暴力を手に入れたというよりも、テロリズムという暴力の行使によって、神格化されたということだ。

イラク、北朝鮮などの原子爆弾の流出の可能性など、従来は高価であるために、権力者のみが手に入れることができた兵器や情報(ネット)技術などが安価で手にはいるようになった。このために、「科学技術が容易に「独自の信念」に結びつき、アメリカに対抗できるまでになっているということが現代のテロリズムの脅威である。ここには「科学技術−国家(法)−貨幣」の秩序体系における、科学技術の突出がある。
科学技術の発展が、国家、貨幣の秩序を越えた例外状態を作り出し、その秩序を脅かしている。


ネットもまた科学技術の発展が、国家、貨幣を抑えて、その秩序を脅かす、回帰した外部である。安価で世界へ情報発信し、コミュニケーションすることが可能にすることで、国家(法)の秩序を飛び越え、危険な情報や、法において認められないような誹謗中傷などが、無法地帯として氾濫している。国家(法)の秩序が及ばない例外状態=略奪(闘争)となっている。そのために健全な貨幣交換も脅かされている。

ここでも贈与関係の強度が浮上して、ネットの社会性を支えている。ネットにおいての「神」は、国家(法)でも、貨幣でもなく、贈与する者である。高価なソフトをアップするもの、一般には知りえない有用な情報を公開するもの、無償の労働で有用な意見を発信するアルファブロガーなどは「神」と呼ばれ、自らの裸体を晒す女性は「女神」と呼ばれる。ネットでは「小さな」純粋贈与=天からの贈り物を行う者が小さな「神」なのである。

しかしテロリズムやネットはまた「科学技術−国家(法)−貨幣」の秩序体系が世界を開拓する時に生まれる遷移状態であるといえるのかもしれない。中東にも確実に資本主義的な秩序は浸透し続けているし、ネット技術はまさにグローバリズムを押し進めるツールである。ネットへの国家権力行使の緩さは、「ネット上で人は殺せない」というような直接的な生存と離れているためであるとも言える。
そしてテロリズムの「神」もネットの「神」も、現代の「神」=「科学技術−国家(法)−貨幣」にかわり、人々の生存を保証する可能性は低く、新たな時代の神とはなりえないだろう。


環境問題もまた、現代の「神」=「科学技術−国家(法)−貨幣」が生み出した、回帰した外部(自然の脅威)である。環境問題に対する、「科学技術−国家(法)−貨幣」のシステムの対応方法の一つとして省エネなどの科学技術が考えられる。しかし環境対策はメーカーには開発費がかさみ、消費者には価格アップになる。だからこのような技術の導入は、国家(法)主導による強制としての規制、環境税、補助金などが必要である。

しかしこれは本質的な対策にはならない。なぜなら「科学技術−国家(法)−貨幣」は、環境問題という例外状態においても利潤を生み出さなければ、その「神」としての存在意義を問われるからだ。環境問題がうまくいっていないのは、1国だけで解決できず国家間の協力が不可欠であるが、それぞれの国家がその存在意義として、他の国との競争に勝ちで利益を確保しなければならないという、協力と競争矛盾に陥っているからだ。

現在のシステムでは国家間の闘争=神々の闘争でしか解決できない。そこには神々を納めるメタ神はいない。だから環境問題が深刻化しても、国家はただみずからの存在意義をかけ、神々の闘争、国家間の闘争を激化させる。最近の中国による世界資源の争奪などに、その傾向が見えているのかもしれない。


このような国家の強固さは、自国民(ネーション)の生存にかかわっているからだ。しかしここに循環論があるだろう。自国民(ネンーション)は国家に先行して存在するわけではなく、国家がなければ自国民(ネンーション)は存在しない。すなわちここにまさにラカン的象徴化装置による神の構図がある。

柄谷の「世界共和国」論が単に、国家の上位概念として国際組織(メタ国家)を作ることだけを意味せず、アソシエーションという「科学技術−世界共和国(法)−贈与」システムへの代替(革命)を提案するは、現在の神=「科学技術−世界共和国(法)−贈与」システムである限り、原理的に神々が調停されることは不可能であるからだろう。新たな神「アソシエーションーセカイ共和国」が生まれるしか解決策がないということだ。

しかし「世界共和国」が可能であるとすれば、このような神々の闘争が徹底的に混沌とした先にホッブズ的な自然状態が再来するしかないだろう。それは宇宙人が攻めてきて「地球人」としての生存が危ぶまれるとき、すなわち一気に強力な純粋贈与(略奪)、ベンヤミンがいう神的暴力が到来すれば、地球人すべての負債感を回収するような「世界共和国」という強い神は作動するだろう。

いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。

法維持の暴力はかならずその持続の過程で、敵対する対抗暴力を抑圧することをつうじて、自己が代表する法措定の暴力をもおのずから、間接的に弱めてしまう、ということである。このことは、新たな暴力か、あるいはさきに抑圧された暴力かが、従来の法措定の暴力にうちかち、新たな法を新たな没落にむかって基礎づけるときまで、継続する。神話的な法形態にしばられた循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史的時代が創出されるのだ。・・・法のかなたに、純粋で直接的な暴力がたしかに存在するとすれば、革命的暴力が可能であることも、それがどうすれば可能になるのかということも、また人間による純粋な暴力の最高の表示にどんな名をあたえるべきかということも、明瞭になってくる。

「暴力批判論」 ベンヤミン (ISBN:4003246314)



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