ボクたちがマクドナルドへいくのは
食事に時間を割くよりも重要なことがあるからだ。
pikarrr


マクドナルドの居心地の良さ


最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお店」は廃れる傾向があります。このような傾向は「マクドナルド化(McDonaldization)」と言われ、効率最優先による人間性喪失ととらえられます。

20世紀の初頭に、ヘンリー・フォードによって生み出された生産体系に「フォーディズム」というものがある。フォードが生み出した『大量生産』は20世紀の工業をまさしく象徴するようなものへとなっていった。・・・当然この生産システムは、現在の「マクドナルド化」の元になっており、・・・標準化された作業手順によって脱熟練化になり、労働者の均質化や大衆労働が可能となったのである。最後が消費の均質化である。これもフォーディズムのように、大量生産された製品を販売するための市場が成長することで、消費の方も均質化していったのだ。

またマクドナルド化は、簡単に言うならば、人間の技能を機械(人間に寄らない技術体系)に置き換えることで、いかに合理化するかというものである。・・・脱人間化された状況のことである。機械化が進むにつれて人間の思考を制御し、考える必要をなくす点である。・・・これはマンハイムの言葉を借りるならば「思考能力の喪失」であり、言い方を変えるならば、機能的合理性の浸透によって実質的合理性が低落してしまうということである。そしてそれは国民的アイデンティティと個性の喪失という世界を生じてしまうことになる。

マック職に顕著な特徴の一つとして、人々が仕事上で口にする事を高度にルーティン化しているという点をあげることができる。・・・マクドナルド化された職種は激しくマニュアル化されているのである。・・・ マック職における労働過程のうち、極めて重要なことは、かつて有給の従業員によって行われていた作業の多くを、無給で客が行うように誘導され、仕向けられているということであろう。・・・ある意味ではマクドナルド化システムの成功の鍵は、そのシステムが従業員からの搾取を、客からの搾取によって補うことができたことにある。

「マクドナルド化社会」 葛原怜 http://eri.netty.ne.jp/honmanote/kyozai/
economy/001mac/index.htm

たとえば田舎の常連客の集う店に一人で入る、あるいは女性が一人で定食屋に入るなどの場合、緊張します。この緊張の源泉は他者のまなざしでしょう。まなざしとは視線ではなく、こう思われているのでは、ああ思われているのでは、「女性が一人で食事をするのはだらしない」と思われているのではと、自分の内面にある社会的な規範(超自我)によって、宙ずりにされるのです。

たとえば輸送機関の発達は、人の身体(物体)を場から場への容易に運搬します。あるいは最近では情報化によって、人の身体(物体)は移動しなくても、次々に情報が流れ込み、次々と新たな場に巻き込まれます。そこに他者との軋轢がうまれます。まわりに知った者がいれば、このような宙づりは起こりにくいでしょうが、そして社会が流動化する中で、人も物や情報と同じように、流動性が高まり人々は疲弊します。そしてこのような他者との軋轢を回避する潤滑として、儀礼的な無関心が重視されています。最近良く言われるKY、「空気読めない」とは、いまなにに関心があるのかよりも、なにが無関心化されているか、ということでしょう。儀礼的無関心では、なにがあるかではなく、ないことでなにがあるかという、より高度な読みが求められます。

そしてマクドナルド化は儀礼的無関心という不干渉を積極的にとりこんだシステムだと言えます。相手がだれであるかには関係なく、マニュアル化されたサービスが提供されことで、客はその不干渉に安心します。たとえば寝巻だろうが、薄汚かろうが、子供だろうが、それがなかったかのように無関心に対応されます。たとえば女性が一人で食事をしやすい場所、マニュアル化された機械的な対応によって、まなざしによる宙ずりを解放することで居心地のよい空間サービスを提供します。それが「街のほっとステーション」である理由でしょう。

そしてただ黙々と出されたものを食する。それがマクドナルド化=家畜のように食事をする「動物化」として問題視されます。


マクドナルド化は「贈与関係」を排除する


たとえばある商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足りなかったとき、「下町のお店」では事情を説明して、5円ぐらいおまけしてもらえないかと交渉できます。お店は客に5円を贈与するのです。しかしコンビニでは5円だろうが、おまけすることはできません。これは金額の問題ではなく、「贈与関係の排除」がコンビニの存在価値の大きな部分を占めているからです。

コンビニでは、商品を購入する客がどのような人物かに関係なく、どの客にも同じマニュアル化された対応を行います。だから店内では必要以上にお客に干渉しない。
「贈与関係の引力」が排除され、徹底的に貨幣(等価)交換関係が重視されることで、「他者回避」された場が実現されています。

現代の消費型資本主義社会では物質的な豊かさを手に入れました。このような豊かさは人を「助け合い」から解放します。「他者回避」し、「一人でも生きていける」社会を作り上げます。この「一人でも」とは無人島のようなことではなく、強いコミュニティによる「助け合い」、すなわち贈与/返礼の関係から抜け出て、「一人でも」生きていける「自由」な社会ということです。

さらに豊かさは爆発的に人口を増加させ、社会の流動性を急激に高めました。そのために贈与関係の引力はむしろ社会の流動性に対して、拘束的、排他的なものとなります。流動性の向上の中で、「マクドナルド化」のようなマニュアル化された「システム」は重視されるのです。


「内部の自由」と「外部への自由」


たとえば自動車は現代の科学の推移がつまっており、それが数百万円程度で手に入るのは画期的なことだといわれます。自動車には様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷います。しかし仮に「自分だけのオリジナルの自動車がほしい」と特注すれば、普通の乗用車でも億単位のコストがかかります。こんなに安価に手にはいるのは、高度にマニュアル化された管理技術の賜物です。

現代ではさらに「システム」が複雑、多様化しすぎているために、選択が難しくなっています。たとえばグーグルが行おうとしていることは、このような複雑化しすぎたシステムを、データーベース化し、ユーザーかほしいものをナビゲートするシステムです。

このように高度に発達した情報化社会では、ユーザーはグーグルなどの内部でどのような操作が行われているのかを知ることなく、満足と気付かないような満足を与えています。これは「環境管理権力」などと呼ばれます。

しかしどこにもない自分だけの自動車がほしいと、マニュアルから逸脱しようとしたとき、「車は数百万円である」という常識が限られた内部の秩序であったことを知り、「自分だけの自動車を作るには数十億円かかる」という事実に、後ずさりします。

自分だけの自動車をめざしてはいけないという「自由」に対して拘束があるわけではありません。それでも満足の地を離れ、苦難な荒野に向かうでしょうか。「自由なんだから、もっと頑張れ。」、「あきらめたのは個人の責任である」と言うことでしょうか。そこには普段気が付かない高い壁が存在するのです。現実的には個人ではどうすることもできないような「不自由」が存在するのです。しかし「不自由」はいつもは透明化されているのです。

システムが与える多様な選択の自由は、「内部の自由」でしかありません。「内部の自由」が多様化するほどに、内部は閉じ、「不自由」は隠され、そして閉塞します。そしてボクたちがほんとうにもとめる自由とは、「内部の自由」の外=不自由であり、「外部への自由」です。

だから「自分だけの自動車がほしい」という意味はほしいものあり、それが内部にないのではありません。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それがボクたちの自由なのです。


「重要なこと(不自由)」を見いだす強迫


だからといって、「大きなシステム」が知らないうちに僕たちを取り囲んで、ほんとうにやりたいことができないというような単純な疎外論ではありません。僕たちが「マクドナルド」へいくのは、決められたマニュアルにしたがい選択し、人間関係を気にすることなく「食事をするという行為」によって、「負荷」が大きく低下することができるためです。それによって「重要なこと(外部への自由)」による多くの労力を割くことができるようになるからです。

重要でない「不自由」はシステムに従うことで見えないこととしているのです。たとえばかつてハッカーは汚い服装で、粗末な食事で、パソコンに向かい続けたのは、服装や食事よりも「重要なこと」をしているというアピールであったという話があります。

これはパラドキシカルな状態ともいえます。
「重要なこと(不自由)」を目指すために、「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け入れる。たとえば最近のフリーター、引きこもりなどの人々はこのようなパラドキシカルな状態にはまりこんでいるのではないでしょうか。すなわち「重要なこと(不自由)」を目指すために「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け入れる。それによって「重要なこと(不自由)」を見いだすことがより強迫的になる。

現代では目指すべき「重要なもの(不自由)」が明確化されなければ、システム内部に閉じこめられ、「満足」によって閉塞してしまいます。「キミの「重要なこと(不自由)」とはなんだ?」。それは「夢を持て」と同じ意味です。「システム」が満足を与えるほどに僕たちは閉塞する状況におかれます。


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