なぜ「空気が読めないことが最も嫌われる」のか?
pikarrr


場(空気)の支配を賭けた闘争


空気の読める社会(1) 

以前、子どもたちの間では「空気が読めないこと」が最も嫌われる、という話があったが、これは、大人の間でも共通しているようである。価値観が多様化した、とされる社会では、「素直に」考えれば、ハイコンテクストな(共有する文化的・社会的背景や情報が多い)コミュニケーション空間からローコンテクストな(共有する文化的・社会的背景や情報が少ない)コミュニケーション空間へと変化するということであり、「コミュニケーション」の本来の意味である、(特に異なる価値観の人の間での)意思疎通のためにはより明確に言語化した対話が重要になると考えるのが一見自然である。・・・しかしその一方で、冒頭の「空気を読む」というのは、明確に言語化されたコミュニケーションの手法とは全く異なるようにも思われる。このねじれは、一体どういうことを意味しているのだろうか。

SocioLogic(lovelesszero5.0) http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000108.html

「空気を読む」ということには、単に受動的にその場に合わせるということだけではなく、場の支配を賭けた闘争という意味があるのではないだろうか。価値が多様化した時代には、コミュニケーションの場は、だれもが外部として排除される可能性がある。この緊張において、場から排除される可能性が高いものが、その緊張にたえかね、危機回避から、「弱いもの」をスケープゴードとしていじめて、外部へ排除する。このようにして外部をつくることによって、内部を作動させ、場の緊張を和らげる。

いじめは、このような場の安定として生まれる。ここではいじめられるのは、だれでもよいのであり、僕であるかもしれない。そして外部に転落しないように、みな懸命に「場の空気」を読もうとするのである。ここではいじめられている外部は、内部を維持するため、自分が外部に転落しないために必要とされるという共犯的に維持される。いじめはこのような集団の力学で発生する故に、解消されにくい。


内部はコミュニケーションにより、作動するわけであるが、かならずしも対面している必要はない。特に最近はマスメディアの影響が多い。あゆファンというコンテクストを共有するためには、あゆにあう必要がないだけでなく、あゆファンにあう必要もない。マスメディアを通して、あゆファンがいるという情報のみで強い内部への帰属意識をもつことができる。

ボクはこのような状態を「ハニカムハーツ(蜂の巣状化するこころたち)」と呼んだ。

ハニカムハーツ(蜂の巣状化する心たち)

本来自由な選択で、各人個性的であるはずが、マクロ的には没個性化に向かう。そして「寛容」という距離によって閉鎖された「個室」の中で、消費という自分の趣向による登録によって、自己を維持し続ける。それはまるで心が一つずつの穴を形成する蜂の巣状(ハニカム)のような状態になる。これは物理的な「個室」を意味するのではなく、引きこもりという限定されたものではなく、現代人の全般的な傾向だろう。そしてこのようなハニカムハーツが、「孤独」と閉塞の中で、自己を保つために消費すべき、「生き生きしたもの」を求めて、さまようのである。(pikarrr)

・心の趣向化・・・趣向で形成された心は好きか嫌いという価値基準にもつ。
・心の個室化・・・趣向で仕切られた心は、ナイーブで、現前化する他者との密接なコミュニケーションを避ける。
・心の幼児化・・・他者(社会)との接触が少なく、趣向により形成された心は体内回帰のごとく幼児化し、高い「プライド」、低い「自己信頼」をもつ。

心たちはなぜ蜂の巣状化するのか? http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050511

この場合、家族、学校などの社会的、物理的に近接した周りは、外部となる。蜂の巣の中一人で、マスメディアの向こうの見知らぬ人々と直接的なコミュニケーションなく、内部が作動し、コンテクスト、すなわち価値観がつくられていく。これはオタク化であるとともに、引きこもり、ニートなどは、より強く社会的なコンテクストから離脱した人々であるといえるだろう。

しかし完全に社会から、現前の他者から遮断されることなどできない。親からの注意、あるいは恋愛などで、外部と遭遇したとき、ハニカム内のコンテクストが、社会的なコンテクストと大きく遊離しているときには、闘争がおこる。

しかし最近ではネットの発達により、ハニカム化していても、外部とコミュニケーションすることが容易になった。そのために従来「ハニカム化」していた内部を繋ぎ、ネット上で内部を作動させることが可能になる。たとえばその顕著な例が、「電車男」である。「電車男」の感動とは、内部にいることの共有である。そしてこの内部を作動させているのは、エルメスを女神とすること、すなわち女性を外部に疎外し、超越させることである。

あるいは、ネット上に氾濫するヘイトスピーチも同様な構造をもつと言える。ネット上などのヘイトスピーチは、そこに差別する外部を想定することを意味する。それによって、場の緊張をやわらげ、発話者たちが内部にいることを強調する。そしてこのような「転倒」においてたとえば「朝鮮人は〜だ。」などの神話が捏造される。

そもそもネット上は見知らぬ相手とテクストのみで会話するというコミュニケーション不全の場である。このような場において、多くにおいて社会的な他者(有名人など)を外部として攻撃し、場の緊張を緩和し、内部として作動させる。繋がりを強化する。そしてネット上はうわさ話(神話)の宝庫である。


「小さな闘争」の時代


ハイコンテクストとかローコンテクストとかいう時の、コミュニケーションにおける「コンテクスト」とはどのようなものを指しているのか。先の「コミュニケーション学 その展望と視点」(ISBN:775400312)からもう一度借りれば、「できごとを取り巻く情報であり、そのできごとの意味と密接に結びついているものである」ということであり、加えて「静的な文化のコンテクスト」「動的な状況のコンテクスト」の2つがあると同書ではまとめている。どうやら「空気」について考えるには、この辺りをもう少し掘り下げる必要がありそうである。具体的には、図2のように、コミュニケーションコンテクストは、時間の長さや空間の広さの違いによる多層構造を持っているもの、と考えられる。



SocioLogic(lovelesszero5.0) http://www5.big.or.jp/~seraph/mt/000108.html

戦争とは宗教、民族、国家という「大きな内部」間の「大きな闘争」である。現代における「価値の多様化」とは、ポストモダン的言説では、「大きな物語の凋落」、社会的規範の低下、「小さな物語」といえる。そしてこのような「歴史の終わり」の後には、先進国というリベラルな民主主義間に、もはや大きなコンテクストを賭けた闘争=戦争はない。

このような状況の中で、「大きな内部」としての「静的な文化のコンテクスト」は希薄化し、「儀礼的無関心」化している。人々は緊張の中で、波風が立たないことを望み、闘争を避けるために、最低限求められる場の空気(コンテクスト)を共有しようという、「ゆるい内部」を作動させている。

たとえば、電車の中で、独り言をつぶやいてみるとよい。回りの空気が凍るだろう。そこには場の緊張を回避する「儀礼的無関心」が働いているためである。「儀礼的無関心」とは、多様な価値があることを認めて、お互いに干渉しないでおこうという「寛容という不寛容」であり、「ゆるい内部」の作動である。

とりわけ匿名的な焦点のない集まりで、人は、周りの動作と外見に互いのラインを一瞥し、万事うまくいっていること、互いに前提が自分の前提とするに足りるものであることを確認しては、つぎの瞬間、自分のラインにもどる。悪意や敵意、恐怖や羞恥心がないこと、進行しつつある行為が表出/読解されるラインそのままであることが確認される。共在のなか、事実として互いに儀礼的無関心を運用しあっていることを相互に確認しあうだけで、それぞれの運用の実効性が安心されることになる。・・・人はただ他の人たちと居合わせるという事実にいて、それだけで既存のプラクティスを採用−運用する。いや、せざるをえない。その結果として、共在の秩序が行為の場面場面に形成され続けているのだ。

制度とシステムの現状がいかに抑圧的、加虐的であっても、人はその再生産に「自発的に」加担していく。カテゴリカルに差別化され続ける女たちがそれでも自然な性差を信じ続け、スティグマを付与された人たちがそれでも現行秩序に居場所を求め続けているように。

「ゴフマン世界の再構成」安川一 (ISBN:4790704033 )

たとえば電車内の携帯電話を不快に思う人は、「儀礼的無関心」に反する干渉であり、車内という「ゆるい内部」の空気が破られると感じるのである。

「子どもたちの間では「空気が読めないこと」が最も嫌われる」と言うときには、「空気が読めない人」は緊張する場を破壊するトラブルメーカーであり、子供たちがすでに内部/外部の緊張を敏感に感じていることをしめす。


かつては、「大きな内部」としての旧来の「静的な文化のコンテクスト」=社会的な背景に強く帰属し、「私」を規定したと考えられる。しかしポストモダンにおいて、「静的な文化のコンテクスト」への帰属は希薄化し、「動的な状況のコンテクスト」という「小さな内部」への帰属意識が高くなっている。

すなわち人々は多重な内部へ帰属し、「主体が主体である」ために、どのコンテクストに強く帰属するかという繋がりの強度がある、そして「大きな内部」から、「小さな内部」への強度を強めているということである。

それは逆説的には、ポストモダンにおいて、「私」を規定するためには、「静的な文化のコンテクスト」では困難であり、動的な状況のコンテクスト」という「小さな内部」への帰属意識によってしか、満たされない。それ故に、「小さな内部」の乱立、価値が多様化していると言える。

ボクはこれを「差異化運動」と読んだ。すなわちハニカム化とは、ポストモダンにおいて、「私」を見いだすために選択されるべく選択された方法であるといえるかもしれない。このようなことから、人々は多かれ少なかれ、「ハニカク化」、「オタク化」するのである。

そしてシャネラーはさらにそれ自身のコミュニティ内部への差異化運動を持つ。人は単にシャネルをもつ人々/持たない人々程度の差異化では、自己価値を見いだすことができない。それはシャネラー内で、シャネルを数多くもつ人、最新のシャネルを持つ人などの内部を開拓する方向へ差異化され、自己価値はより細部にもとめられ、コミュニティ内部は複雑化するのである。(pikarrr)

溢れる余剰 その2 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20040503

「小さな内部」、「小さな闘争」だからと舐めてはいけない。なぜなら闘争とは、大小にかかわらず、「私とはなにものである」をかけた、すなわち生死をかけた闘争であるからだ。主体が主体であるのは、内部に帰属することによって可能になる。私は何ものであるか、ということは、多重な内部への帰属による、他者との差異によるのである。

たとえば、最近、とくに少年期のようなナイーブな時期には、ある「小さな内部」への帰属が突出し、それが「セカイ」のすべてであると考え、既存の「内部」と闘争する「小さな戦士」と化す傾向がある。社会的なコンテクストにおいては、些細なことが、自分自身を賭けた意味をもつ。だから少年犯罪において、大きな内部のコンテクストからは、「なんでこんな些細な理由で・・・」と、その意味はみえないのである。

それは「大きな内部」からは、まるで空回りしているようにみえても、「人間」であろうとする姿ではないだろうか。現代においては「小さい内部」でこそ、繋がりの実感が味わえるのであり、より強烈な「まなざしの快楽」なのである。だから多かれ少なかれ、みな「小さな戦士」なのであろう。


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